クリックすると詳細が見られます安祥城
安城市安城町城堀30
築城/廃城年 1440年/1584年?
築城者 和田親平
1440年、畠山一族の和田親平が築いたと言われる。
1471年松平信光が入城して以来、松平家の本拠地となり、この流れは安城松平家と呼ばれるようになった。1524年清康(家康の祖父)が岡崎城に本拠を移したため、安祥城には一族の松平長家が城代として入った。
守山崩れ(清康が守山城で家臣の阿部弥七郎に殺害された事件)が起きた際、嫡男広忠は若干13歳、事件の収集を納める事もままならず松平家は弱体化していった。この松平家の弱体化を見計らい、尾張の織田信秀(信長の父)が安祥城を奪取し、信広(信長の異母兄)を入れた。
松平家は今川家から援助を受けるため、嫡男竹千代(後の家康)を人質に送るが、護送途中に田原城主戸田康光に奪われ、織田家に売られてしまう。織田信秀は竹千代を質に松平家の恭順をうながすが広忠は拒否、竹千代は熱田で人質となったままであった。


今川・松平連合軍は、1548年の小豆坂の戦いで織田軍に勝利。戦後、捕らえた安祥城主織田信広と織田家の人質となっていた竹千代の捕虜交換が行われた。これ以後、安祥城は今川家の家臣に治められていたが、桶狭間の戦いの後、今川家から独立を果たした松平元康(後の家康)と織田信長が清洲で同盟を結ぶにあたり廃城となった。
しかし約20年後の小牧・長久手の合戦時、徳川方により補修を受けているという説も有力。
現在は公園として整備されて公園となっており、安城市歴史資料館も併設されている。碑・塚・切岸・堀・一部曲輪などが残る。