現存天守閣が残っている十二城の一つで重文指定の城。標高80mほどの低山に築かれた平山城、また海に面した海城でもある。
築城の起源は瀬戸内海で暴れた藤原純友を討つため橘遠保が築いたものとされ、当時は丸串城と呼ばれていた。その後鎌倉時代に入ると西園寺氏の城となったが、応仁の乱以降は細川氏、大内氏、大友氏、長宗我部氏などの度重なる侵入を受けている。
1585年羽柴秀吉によって四国征伐が行われると、伊予は功績のあった小早川隆景に与えられ、この城には家臣の持田右京が入った。その後、小早川隆景は筑前の名島城へ転封となり、戸田氏を経て、1595年築城の名人と言われる藤堂高虎が宇和7万石で入国した。高虎はさっそく築城を開始し、6年後の1601年完成となった。
現在では小高い丘の上にぽつんと天守が見られるだけでさほど強固な城には見えないが、そこは築城の名人高虎、ぬかりはない。得意とする石垣、要所に築かれた櫓、そしてこの城の特徴ともいえる不等辺五角形の縄張、この縄張が曲者で、今のように航空写真がない時代には一見この城の縄張は四角形に見えるようになっている。当然、四角形の城を囲む為に周りを囲んでも一辺開いてしまうのだ。幕府の隠密が描いた見取図も四角形になっていたという話も残っている。
1608年高虎は今治城へ移り、後に富田信高が入るも5年後に除封、幕府直轄の一年間を経て伊達政宗の長男秀宗(庶出)が宇和島10万石で入城する。1664年から二代宗利によって大規模な修築が行われ、現在の天守もこの時新たに築かれた。この天守は泰平の時代に入ってからの築造である為、石落としや鉄砲・矢狭間などが見られない。
維新後は兵部省管轄となり、櫓。門など大半の建造物は破却され、堀も埋められた。残っていた大手門も戦災で焼失してしまい、現存する建造物は天守と上がり立ち門だけとなっている。
戦後、伊達家から宇和島市に寄付され現在に至る。 |