芦名時代
芦名直盛が1384年(至徳元年)黒川城を作ったのが始まりとされる。芦名氏は奥州藤原氏を倒した源頼朝が会津に派遣した佐原義連の子孫が芦名を名乗ったことによる。
伊達時代
14代続いた芦名家も1589年摺上原の戦いで伊達政宗に決定的な敗北を喫してしまい滅亡、会津は伊達家の版図に組み込まれた。しかしその翌年政宗は秀吉に北条征伐遅参の咎を責められ手に入れたばかりの会津を召し上げられてしまう。
蒲生時代
伊達家の後に蒲生氏郷が入城、百万石大名としてふさわしい城にするため七層の天守を築くなど黒川城を改築して、城名を鶴ヶ城に改めた。また城下町を若松と命名し旧領(近江・伊勢)の商人などを呼び寄せるなどして商業を発達させた。氏郷の死後、嗣子秀行が所領をついだがわずか3年後宇都宮に減封された。
上杉時代&加藤時代
秀行の去った城には五大老の一人である上杉景勝が120万石の所領で入ったが、こちらも関ヶ原の敗北によりわずか3年で米沢に転封された。変わって転封されていた蒲生秀行が軍功により60万石で返り咲いたが、秀行をはじめ嗣子が皆若くして没し、1627年家名は断絶した。その後加藤嘉明が入城したが、嘉明没後に城の改修や騒動を口実に幕府から召し上げられてしまう。天守が現在の形(現在は外観復元だが)になったのはこの加藤家の時代。
松平時代
1643年家光の庶弟保科正之が23万石で入城、後に松平と姓を改めて九代続く。この正之は徳川将軍家への忠誠を尽くし、子孫へも家訓として残している。
幕末には松平容保が会津藩主となり京都守護職に付き、京都で新撰組を抱えることになる。会津は大政奉還後新政府軍に攻められ戊辰戦争最大の激戦区となり、京都から逃げてきた新撰組もこれに加わっている。一ヶ月に及ぶ篭城の末開城に至り、白虎隊の悲劇を生む。
藩の性格はその藩祖の性格に基づくといわれるように、会津松平家は幕末期に親藩が幕府に背反していく中で最後まで最後まで忠義を尽くした。 |