1601年関ケ原の戦いに勝利した徳川家康が朝廷の監視と京での宿舎とする為に諸大名に命じて築かせた平城。織田信長・豊臣秀吉が築いた二条城とは異なる。
1611年に家康と豊臣秀頼の会見がこの城で行われ、その豊臣家を滅ぼした大阪夏・冬の陣で家康はこの城から出陣している。
当時は現在の二の丸を中心とした半分ほどの規模であったが、二代秀忠の改修、三代家光の天皇行幸に際しての大規模な拡張でほぼ現在の形となった。守りの城というより宿舎という面が強く、あまり堅固な城とはいえないが、各大手門や仕切門、切込ハギの石垣等見るべき防御施設も多い。また、二の丸御殿は国宝に指定されており、現存している唯一の完全な御殿となっている。
家光以降、歴史の表舞台に出ることもなく、1750年天守閣が落雷炎上したが再建されることもなかった。
1863年、十四代家茂が長州征伐に際し、家光以来の入城を果たす等、朝廷・倒幕派との確執の中で再び歴史の表舞台に名を表したが、二条城の名を最も有名にしたのは、1867年十五代慶喜による大政奉還であったのが歴史の皮肉とも言える。
国宝の二の丸御殿の他、数多くの重文指定を受けた建造物があり、城自体が世界文化遺産に指定されている。 |