天下統一後、大陸への進出を図った秀吉が名護屋氏の垣副城跡に本営として築いた城。
加藤清正等が普請奉行となり割普請の突貫工事でわずか五ヶ月程で築き上げた。幾つかの郭を持つ総石垣の広大な城で本丸には五層の天守が築かれていた。
割普請の際、東海〜関西等早くから石垣の建造が始まっていた大名から建造方法を取得する大名も多かったということである。
二度の朝鮮出兵失敗後に廃城となり、この地を領した寺沢氏は廃材を一部用いて唐津に城を築いた。島原の乱の際にはこの城跡が使用されるのを恐れた幕府に徹底的に破壊され、今もその破壊跡を垣間見る事ができる |