島津氏を降し、天下統一目前の秀吉がこの讃岐を伊予と並ぶ瀬戸内海の守りの要として信用厚い生駒親正に与えた。赤穂六万石から讃岐十七万石への出世であった。親正は入部当初、阿波に近い引田城に入ったが、瀬戸内海の守りとしては東に寄りすぎていたため、今度は西の聖通寺城に入った。しかしこの聖通寺城も狭く不便であったため、三年の月日を要して新たに城を築いた。
縄張設計は黒田孝高(官兵衛)ともいわれ、現在でも日本三大水城の一つとして数えられるこの城は、瀬戸内海に開かれた海城として豊臣政権の重要な水軍基地を担うこととなった。
生駒氏は関ケ原をはさみ四代続いたが、四代高俊の代に御家騒動で出羽へ減封、幕府は生駒氏が去った讃岐を東西に分け、東讃を松平頼重、西讃を山崎家治に与えた。家治は生駒氏が築き一国一城の制で廃城となっていた丸亀城に入り、頼重は生駒氏の本城であった高松城に入った。頼重は水戸藩主頼房の長男であり、西国の押さえとしての入部であった。
水戸藩は頼重の弟光圀が継いでいたが、光圀は弟の自分が水戸本家を継いだ事を気にかけ、頼重の子綱條を水戸本家の三代藩主として呼び寄せ、自分の子頼常を高松藩二代藩主とした。その後高松松平家は西国の見張りとして11代220年続き、維新を迎える。
往時は小倉城を模して築かれたと言われる天守閣の他、20近い櫓が建てられていたが、天守閣は老朽化の為明治17年に惜しくも解体、その後の第二次大戦で空襲の被害を受けた上、戦後には堀の大部分が埋め立てられてしまっている。
しかし活発な保存活動もあって、現在城内にはニ基の現存櫓、海水を引き込んだ堀等、みるべき遺構も多く残っている。また天守閣も2014年を目標に復元計画が進んでいる。 |