現存天守閣が残っている十二城の一つで重文指定の城。
天文年間(1532〜1555)には奈良元安の支城であったが、1585年長宗我部氏によって滅ぼされた。秀吉の長宗我部制圧後、讃岐は仙石秀久に与えられたが、島津征伐の失敗で秀吉の怒りを買い、その後生駒親正が封ぜられた。親正は讃岐の本城として高松城を築き、支城として海抜66.6mの亀山に螺旋型の縄張を持つ丸亀城を築いた。しかし落成後十年余り後の1615年、一国一城の制が定められると廃城となった。
1640年、生駒氏は生駒騒動と呼ばれる御家騒動で出羽へ転封されると、幕府は讃岐を東西二国に分け、東讃12万石を松平頼重(徳川光圀、俗に言う水戸黄門の実兄)、西讃5万3000石を山崎家治に与えた。
5万3000石の小大名としては維持が難しいと重臣達から反対されていたが、家治は廃城となっていた丸亀の再建を決定する。現在の石垣はこの家治の時代に築かれたものである。
やがて、山崎家は継嗣なく断絶、播磨から京極家が入る。京極家は山崎氏の頃から20年の工事に及んだ天守を完成させ、大手門を城の南側から現在の位置へ移し、七代210年の支配の末、維新を迎えた。建造物のほとんどは火事や取り壊しで失われてしまったが、旧臣の必死の運動によって天守閣と大手門の取り壊しは免れた。
現存天守閣もさることながら、石垣がとにかく素晴らしい城である。 |