松江市
松江城





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松江市殿町
築城/廃城年  1611年/-
築城者 堀尾忠氏
現存天守閣が残っている十二城の一つで、山陰地方では唯一となる。
天守は四重五階で二層入母屋の上に二層櫓が乗った望楼型となっており、入口部分に付櫓が付属している。壁面は一部を除いて張られた下見板張によって全体的に黒く締まった印象を与える。また94箇所を数える狭間や幅の広い石落し、地階の屈曲など実戦本位の造りが随所にみられる。
縄張は比較的良く残されているが、天守以外、門や櫓などの建造物は現存しない。


遠江浜松12万石の太守堀尾吉晴は関ヶ原の後、出雲23万5千石を与えられた。吉晴はこの地の月山富田城に入ったが、中世以来の山城で城下町が形成しにくかったことや、領国内における城位置の偏りからこの地を嫌い、領国経営に適した土地として宍道湖の南、末次城のあった亀田山に新しい城を築くこととした。
1607年より築城を開始し、1611年にほぼ完成した。築城の名人と言われた吉晴であったが、途中工事は難航し、天守の人柱伝説や槍の刺さったしゃれこうべ供養など、築城にまつわる怪談がいくつか残っている。
その後堀尾氏は無嗣子により三代で改易、その後に入った京極氏も後継が無いまま一代で改易となった。その後に家康の孫(次男秀康の子)にあたる松平直政が入り、以後維新まで松平家が続いた。


明治6年廃城令により天守以外の建造物が破却され、残った天守も城を管轄する陸軍省により払い下げられ入札に出された。釘や鎹など金属部分を目的とする入札であったため、落札すれば破却は免れなかったが、旧藩士や大地主がせめて天守だけは残そうと尽力し、入札額(120円)と同額の寄付をすることを条件になんとか破却を免れることができた。


しかし破却こそ免れたものの、その後の城は荒れるにまかせた状態となっていた。明治23年、城が陸軍省より旧藩主の松平家に払下げられると天守の修繕工事、及び主郭の公園整備も行われた。現在も二ノ丸に残る興雲閣の建設や松江神社の移築も明治後期に行われたものである。


その後明治末期から大正期にかけて再び荒廃し、「近く崩壊のおそれがある」と県で報告されるほどであった。
昭和2年、松平家は城の維持持続が難しくなり、城及び城域を松江市に寄付した。市はこれを受けて城内の整備を進め、昭和10年国宝指定、同25年には天守の本格修理が行われた。その後平成に入り、二ノ丸の櫓や土塀の復元が行われた。
現在は国宝保存法の廃止により重文指定となっている。