現存天守12城中唯一の山城。標高420mの小松山に築城され、岩村城(岐阜)、高取城(奈良)とともに三大山城の一つでもある。
城の歴史は古く、1240年備中有漢の地頭となった秋葉重信が領国南部の大松山に砦を築いたことからはじまる。当時は高梁城と呼ばれていた。秋葉氏はこの地で5代続き、その間、城は南に向かって広がっていった。
元弘(1332年頃)の頃、高橋宗康が入城して小松山も城域に含まれるようになった。
その後、高氏、秋葉氏、上野氏、庄氏と城主は移っていき、戦国時代末期、毛利家の支援の下、この地方で力を持つようになった三村氏の居城となった。三村氏は城の拡張・強化を行うとともに、城下町の整備に努めた。
1574年、父三村家親を宇喜多直家に暗殺された三村元親は、直家に決戦を挑んだが大敗、居城である松山城は庄氏に乗っ取られてしまう。後に城を取り戻す事に成功したが、直家と和睦した毛利氏から離反して、織田信長の傘下となった。当然ながら毛利氏から討伐を受けることとなり、小早川隆景によって周辺の支城を次々に落とされると、持久戦を支えきれず城は落城、元親は自刃して三村氏は滅亡した(備中兵乱)。その後毛利氏の家臣であった天野氏、桂氏が城代となった。
関ケ原の後、備中代官となった小堀氏によって、根小屋をはじめとする更なる城下町の整備が行われた。
1681年から三年間、水谷氏二代勝宗によって天守建造をはじめとする近代城郭としての修築が行われる。
水谷氏が三代で無嗣廃絶となった後、赤穂浪士で有名な赤穂藩家老、大石良雄が城番として入っている。その後、安藤氏、石川氏、板倉氏と続いて維新を迎えた。
明治の廃城令を受け、城は城下の商人に買い取られ、根小屋等の麓の建造物は破却された。山上の城郭建造物は利用価値が見出せず、捨て置かれたまま荒廃していった。
1930年(昭和5)、町の有志によって二重櫓の修繕が行われたのをきっかけとし、1940年(昭和15)には天守の解体修理が行われた。1941年(昭和16)、天守・二重櫓・三ノ丸土塀が国宝に指定されたが、1950年(昭和25)国宝保存法の廃止により、重文指定に変更された。
正直なところ、目玉である天守の規模は小さく、他の現存天守と比較しても見応えに欠けるが、幾重にも重ねられた山城ならではの縄張や、自然の岩盤の上に築かれた大手門跡、二重櫓など、城全体としての見応えが充分ある城であった。 |