遠州の要となる城で武田・徳川両軍によって攻防が繰り返された。
桶狭間後に徳川方に所属する。1571年武田信玄が攻め込んだが城兵は少ない人数で守り抜き落とすことは出来なかった。信玄没後の1574年信玄の後を継いだ勝頼率いる二万の軍勢によって落城、以後武田方の城となる。
1575年の設楽原の戦いにて武田軍が大敗した後、家康はこの城の奪還を試み、1580年城山等、攻城六砦を築いて包囲した。勝頼にも見捨てられた同年3月22日夜、城主岡部真幸は総突撃を行い、城兵約840名中750名が討死、捕虜となったものが約30名とほぼ全滅。
この後廃城となる。
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