クリックすると詳細が見られます名古屋城
名古屋市中区本丸
築城/廃城年  1614年/年
築城者  徳川家康
2005年新世紀・名古屋城博「金鯱」おろしの様子
幕府が開かれて4年後の1607年、清洲城主であった家康四男忠吉が関ケ原での古傷がもとで死没し、後には九男の義直が43万石で入った。
当時尾張は徳川家の対豊臣家戦略で欠かせない土地であったが、城のあった清洲は土地の規模が小さすぎる上、五条川の氾濫等が頻繁であったため、家康は清洲から尾張の本拠を移すことを決めた。候補地としては那古野・小牧末森が挙げられ、その中で選ばれたのは名古屋台地にあった那古野であった。
1610年に普請始め、1614年将軍秀忠の検分にて築城完了とされた。
築城には天下普請として前田利光、黒田長政、細川忠興、加藤清正、蜂須賀至鎮、池田輝政等20の豊臣恩顧の有力大名が助役として土木工事を命じられ経済的にかなり圧迫されることなる。
こうして建造された名古屋城であったが、肝心の豊臣家は翌年1615年の夏の陣で滅亡、三ノ丸外側の総構や本丸/ニノ丸の櫓・土塁、搦手馬出等の工事は未完成のままとなった。
1620年、二ノ丸に御殿が建造されると藩主義直はそちらに居住し藩庁となり、以後本丸御殿は将軍家専用の宿舎とされた。
こうして、名古屋城は明治維新にいたる約250年間、御三家の筆頭尾張徳川家の居城となった。


維新後〜戦災による焼失
維新後、城は陸軍省所管となり、二ノ丸御殿等が兵営建造の為破却された。天守を含めた建造物の無用論も論じられたりしたが、結局天守や本丸御殿、三の丸東照宮等は破却をまぬがれ国宝指定されている。
1893年所管が陸軍省より宮内省に移り、名古屋離宮と称せられるようになった。1930年名古屋市に下賜されると、翌年からは一般公開も行われるようになった。
維新後、幾度となく危機をくぐりぬけてきた名古屋城であったが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋大空襲では、天守が金の鯱を退避させるための足場から火の手が上がり炎上消失、同時に本丸御殿、三の丸東照宮、蓮池門等、当時国宝指定されていた31の建造物のうち、27が炎上焼失した。(残ったのは西南櫓・東南櫓・西北櫓・表二の門であるが、現在は重文指定)


戦後
戦後、名古屋城復興の機運が高まると、1956年(昭和31年)復興に向けた工事計画に着手した。1957年6月(昭和32年)競争入札の末、株式会社間組が3億9800万円で落札、伊勢湾台風等の被害もあったが1959年(昭和34年)10月竣工した。