大給城址は、西方眼下に九久平の集落を見下ろす標高204メートルの急峻な山上に築かれている
九久平は足助街道と新城街道との交差点であると同時に、巴川の水運と陸上輸送との中継地でもあるという交通の要衝であった。
本城は、もと土豪長坂新左衛門の城であったが、岩津に進出した松平宗家三代の信光が攻略し、三男親忠(松平宗家四代)に与えた。親忠は細川城とともにこれを次男乗元に譲り、乗元が大給松平氏の初代となった。大給松平二代乗正は永正七年(1510)までに城の大修正を行った。以後、乗勝、親乗、真乗、と続き、天正18年(1590)六代家乗のとき徳川家康の関東への国変えに伴って上野国(現群馬県)に移り、大給城は廃城となった。 |