鯏浦城(うぐいうら)
海部郡弥富町大字鯏浦上六町
築城/廃城年 永禄年間(1558-1569)/元亀年間(1569-1572)
築城者 服部左京亮・織田信長
永禄年間、織田氏が服部左京亮等の拠る、鯏浦島上の旧城(城の腰)に対抗するため、島の東のこの大楠の丘に築いたのが鯏浦城である。
服部左京亮は元尾張管領斯波氏の旧臣で、織田氏とは同格の為、信長の昇天の威勢に反感し、長島一向一揆に味方し事々く信長に反抗した。
元亀元年(1570年)遂に鯏浦城主、信興(信長の弟)をその出城(立田村の小木江)に攻め殺した。このことが信長の激怒となり、一揆大殲滅戦に至ったのある。
戦後当地方の城砦はすべて取り払われたが、この鯏浦城跡には、信興生護持仏として母より譲り受け奉持していた聖徳太子作の薬師像を、旧城地に小堂を建立して納めた。
これが今の薬師寺の由来縁起をなすものである。昭和51年城跡に記念碑を建立した。
(薬師寺説明板より)
鯏浦城碑。碑には「永禄十二年織田信興在城」と刻んである。
樹齢数百年という大楠。城ができる前からこの地に根を下ろしていたらしい。当時はこの辺りが海岸線だったようで、豊臣秀吉がこの木に船をつないだという伝説も残る。
本堂をはるかに凌駕する大楠。その戦乱を眺めていた木が今も自分の目の前にあると思うとなんとなく不思議な気がする。
「うぐいうら」と読む。説明板に記載してある通り、現在は鯏浦山薬師寺という寺になっている。寺の規模は大きくないのだが、なによりその大楠の存在感が圧倒的だった。ちなみに遺構は全く残っていない。また、近隣の道路は狭いので注意が必要。