クリックすると詳細が見られます岡崎城
岡崎市康生町561
築城/廃城年 1455年/維新
築城者 西郷稠頼
三河守護仁木氏の臣、西郷稠頼が築城した。当時は砦規模のもので現在の位置とは異なる場所に建てられたようである。
稠頼の子、頼嗣は新興勢力松平氏の圧迫に耐えかね、松平三代信光の子、光重を養子として迎えた。しかし光重の養子信貞の時、松平宗家の清康によって攻略され、清康は本拠を岩津から岡崎に移した。この時に城は現在の位置に移され、城の規模を整えた。


その後清康は守山崩れで落命、13歳で後を継いだ嫡男広忠は織田家の侵攻に対抗できず、今川氏の助力にて駆逐するも以後属国扱いとなる。桶狭間の合戦後、今川氏から独立した清康の孫、元康(後の徳川家康は)は岡崎に戻り、ここを居城とする。
1570年、家康は居城を浜松城に移し嫡男信康を城主とするが、1579年、家康正室築山殿の謀反容疑にからみ信康は切腹となった。以後家康の関東移封まで石川氏、本多氏が城代を勤めた。その後城主として田中吉政が入城、関ケ原後には本多氏、水野氏、松平氏、本多氏と続き、維新を迎えた。


天守閣は最初、田中吉政の時代に建てられたと言われているが、現在の復興天守閣のもとになるものは、関ケ原の後に入った本多康紀・忠利の時代に建造されたものとされている。