クリックすると詳細が見られます田原城
田原市田原町巴江
築城/廃城年 1480年/維新
築城者 戸田宗光
今川家に人質として送還途中の竹千代(後の徳川家康)を、当時の城主、戸田康光が奪い、織田家に千貫文で売り渡すという事件と、幕末の家老渡辺崋山で有名な城。
室町中期、この城を築いた戸田氏は一時、渥美半島全域と吉田城までその支配を広めたが、上記の竹千代事件で今川家の攻撃を受け、滅亡した。その後今川家の臣が入っていたが、桶狭間の合戦後、家康はこの城を攻略、本多広孝を入れた。
1590年、徳川家の関東移封に伴って広孝も関東へ去り、吉田城に入った池田輝政は家老伊木清兵衛に田原城を与え、城の拡充を行った。1600年、輝政は姫路へ移封、翌年戸田氏の子孫尊次が祖先の地に返り咲いた。戸田家は三代続き天草へ移り、以後三宅家が入り幕末まで十二代続いた。
-渡辺崋山-
渡辺崋山は十一代康直に仕えた家老。家老と言っても超貧乏藩の家老であり、幼い頃には岡山池田藩の若君の列と突き当たり、半殺しの暴行を受け、儒学者を目指したという。
幼い頃より絵画に非凡な才能を持ち、二十代も半ば過ぎには画家としての名も高まった。治世者としても優秀で天保の飢饉の際には領内に餓死者を出さなかった。
三十代に入ると、洋画や海岸防御をきっかけに、外国事情に興味を持ち、蘭学者高野長英・医師小関三英、伊豆代官江川太郎佐衛門らと尚歯会というグループを結成、海外の優れた文化・技術の研究を行った。
「モリソン号事件」時には、幕府の異国船打払令に不満を抱き、未発表ながら「慎機論」を執筆、幕府の対外方針を批判した。
その後、会は幕府に目をつけられ壊滅(蛮社の獄)、三英は自害、長英は無期入牢(後に脱獄)、崋山は「慎機論」が発見され蟄居の身となる。生活に困窮した崋山を弟子が見かね、絵の展示会を行ったが、これが藩の保守派の怒りを買った為、藩主に迷惑がかかるのを恐れ自害した。自害の前に大書きで残した七言絶句「不忠不孝渡辺登」はちょっと有名(登は本名)。