緒川城
知多郡東浦町大字緒川字古城
築城/廃城年 1475年/1606年
築城者 水野貞守
1475年水野貞守が砦跡に築いた城と言われる。水野氏は知多半島から尾張南部までを勢力下におさめるが、後に今川家に属す。四代忠政は刈谷に新城を築いて居城とし、緒川城も地理的に重要地点であったためそのまま残された。
五代信元は父忠政が没すると今川氏を見限り、織田氏に属する。桶狭間で松平元康が今川家から独立を果たすと、信元は信長と元康の間を取り持ち、清洲同盟が結ばれることとなる。しかし1575年、信長重臣佐久間信盛の讒言により信元は切腹を命じられ、一時緒川城も廃城となる。主のいなくなった刈谷城には信盛が入ったが、信盛は後に石山寺との戦いにおける失策を責められ追放となり、信元の弟忠重が刈谷城に、同忠守が緒川城に復帰する。この時緒川城は改修を受け、忠守はそれまでの古城部分から、高藪城と呼ばれる箇所に移り住んだ。古城部分は緒川古城、高藪城は緒川新城とされる。
その後、緒川城は関ケ原の褒賞として水野分長に与えられるも、1606年三河新城へ転封となり廃城となる。天保の改革を行った水野忠邦は忠守の子孫。


徳川家康の母、於大の方の実家である水野氏の城として有名。於大は四代水野忠政の娘として生まれ、長じて岡崎の松平広忠に嫁ぐ。翌年竹千代(後の家康)を出産するが、父忠政没後跡をついだ兄信元が織田家と接近するにいたり、今川家の庇護下にあった松平家は於大の方を離縁、於大は実家の水野家に戻り、後に久松俊勝と再嫁する。
軽自動車でないと少々厳しい狭い路地を入って行くと小さな公園があり、その横の小高い丘に説明板と碑がポツンと建っている。町役場の近くに非常に簡単な案内板が建てられているが、そこから先は車では入りにくいので徒歩で行った方が良いと思われる。3回目にやっと見つける事ができた。東浦町は「於大の方」にかなり力を入れており、城も簡単に見つかるだろうと油断しすぎた。
水野氏の菩提寺乾坤院(曹洞宗中本山宇宙山乾坤院)には緒川城の城門を移築した門が見られる。
周りは宅地化され、碑の建てられている丘の断崖と、その上の櫓台部分にのみ、その遺構を残している。


 説明板
 地図