会津若松城

簡単な縄張図。
馬出状のニノ丸・出丸も見られ、現在でも梯郭式縄張の形状がよく残っている。

鐘撞堂。
時刻を知らせるための鐘。戊辰戦争ではこの鐘撞堂に砲火が集中したため、相次いで時守が死んでしまうが、開城するまで正確に時を告げたと言われる。

天守。
1965年(昭和40年)に復元。当時の写真や資料をもとに本格的な復元がされていて雰囲気も現存ほどではないが楽しめる。
層塔型の代表的ともいえる形状。

石垣の合坂。
城内への大手門となる太鼓門の渡り櫓や帯郭の石垣の上への昇降が容易に出来るように、左右に分かれた石段が設けられている。鶴ヶ城の特色の一つ。(説明板引用)

鉄門と干飯櫓。
走長屋・鉄門・南走長屋・干飯櫓が連なっている。天守閣からの撮影。

鶴ヶ城は花見でも有名で天守閣から見下ろした庭に見える木は殆ど桜。

干飯櫓から見た天守閣。
南走長屋〜鉄門〜走長屋〜天守。鉄門の陰になって走長屋は見えない。

井戸跡。

荒城の月碑。
土井晩翠がつくった「荒城の月」を記念した石碑で、鶴ヶ城と青葉城がモチーフとなっているそうだ。

廊下橋。
戦の際、石垣の無い部分の橋を落として敵の侵入を防ぐ。

高久村の南にある如来堂。
土方歳三に一時隊長を任された斉藤一率いる新撰組が戦った場所。約30名残っていた新撰組は若松城下へ逃れたが、仙台へ撤退する大鳥圭介に賛同できず会津に残り戦うことになる。だが、斉藤一の意見に従った隊士は10人。計11人はこの如来堂で新政府軍と戦い壊滅しているが、戦後このうち7人の存命が確認されている。

城の説明板。外堀は埋められてしまっており、現存している堀は内堀。

 
数度に渡る改修や明治後の改修で石垣の組み方はあちこちで異なったものとなっている。

天守入口。
中は展示室となっている。

蒲生氏郷が築いたとされる天守台。野面積で傾斜も緩く、移行期の特徴が見られる。

月見櫓跡。
二重の塗込櫓で常に武器が収められていた所であったが、城内からの月見の場所としては絶好の櫓でもあったことから、月見櫓の名が付けられていた。
城内南方の湯川や天神橋方面の搦手側の物見櫓として、また内濠牛沼沿の本丸石垣の外部の横矢掛りとしても重要な櫓であった。(説明板引用)

茶壷櫓跡。
城内には常に貴重な茶器類がおさめられていたのでこの名がある。更に武器の収容をも目的とした二重の塗込櫓であった。茶壷櫓の西側の本丸奥御殿内には茶室「麟閣」が建てられていた。
この櫓は御弓櫓とともに本丸の旧大手口に通じる廊下橋の横矢掛りとしても重要な櫓であった。
北側の石垣は高さ二十メートル余で、城内では最も高く美しい急勾配をなし「忍者落し」ともいわれている。(説明板引用)

内堀。

福島県の城