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もともとニノ丸には付家老平岩親吉の邸宅が建てられていたが、1611年親吉が死亡、無嗣絶家となり、藩主義直の御殿が建造された。実際藩政が行われていたのもこの場所。 維新後の1871年、御殿は破却され兵営となる。 |
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二ノ丸南側の「青松葉事件遺跡」の碑。 1868年、御三家筆頭の位置にありながら官軍に恭順した藩は、佐幕派であった重臣渡辺在綱、榊原正帰、石川照英ら14名を有無を言わせず斬首した。もともとその処刑場に立てられていた碑が所在不明になったのでこの地に立てられたもの。説明板によると処刑場はここから南に約100mのところであったらしい。 |
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二ノ丸に残る那古屋城碑。徳川家による名古屋城はもともとこの地で廃城になっていた那古屋城を取り込んでつくられている。 那古屋城は今川家が築城し、信長の父、信秀が謀略で手に入れた。信長が最初に城主となったのもこの城。その後信長が清洲に移ると廃城となっていた。 もともとは「那古屋城跡」と刻まれていたが、現在読めるのは「那古…」まで。それより先は戦災で削れてしまったらしい。 |
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二ノ丸北側の外堀に面した南蛮たたき鉄砲狭間。 粘土・砂利を石灰・油で練り固めたもので非常に強固らしい。屋根部がなくなってしまったので侵食され見るも無残な状態となっている。 銃眼を覗くと堀の対岸が見える。説明板では名古屋城では珍しいものとあるが他の城では自分は見たことがない。 |
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南蛮練塀を上から撮影。砂利が含まれている様子が見て取れる。 | ||
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外堀の外側から撮影した南蛮練塀。銃眼が見える。 | ||
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二ノ丸北側部分。訪れる人も少なく、草もボーボー。何やら少々寂しげ。 | ||
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写真はニノ丸庭園の花壇跡近くに残る北暗渠と呼ばれる排水施設で発掘されたそのままの状態で公開されている。現在でも機能しているようで、説明板によるとこのあたりに降った雨は石樋を通じて堀に注がれているらしい。 同じ排水施設でもある飛鳥の亀形石造物と何となく似ている。 |
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二ノ丸東端部分。やはりほとんど人が訪れないらしく、整備もいい加減。雑草に埋もれたベンチが何やら廃墟チック。これはこれでいい味を出しているのだけど…。 | ||
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「御城御庭絵図」にも記されている二ノ丸の南池。絵図に記されている石組みの島も中央の石の下に埋もれていると推測されるらしい。 | ||
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二ノ丸付近の刻紋。 本丸東部に多く見られる刻紋よりも複雑な紋が多かったような気がする。 山内家の紋に似ていると思うが実際どうだか分からない。ただ山内家も名古屋城の普請に加わっているのでそうかもしれない。 |
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下の写真はなにか文字が書かれているが読めない。「翁」? | ||
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埋門跡。石垣の下や土塀の下をくぐる門。説明板によると城主の脱出路として用意されていて、二の丸庭園近くからこの門を通って石段を降り、対岸のお深井丸から堀を渡り木曽路へと落ちるということらしい。 | ||
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しかしここから脱出はいいとして少し高いぞ…。 | ||
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外堀を経て二ノ丸東面の横矢を臨む。 | ||
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二ノ丸東ニの門跡。現在は車が通行できるようになってしまっているので少し物足りないが、枡形の跡は残っている。 現在本丸東ニの門となっている門はもともとここに置かれてあったもだが、愛知県体育館建造の際に本丸へ移築された。 |
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二の門手前の土橋から外堀を臨む。もともと水掘であったが1897年(明治30年)から翌年にかけての工事で掘底に溝渠が設けてられ空掘になった。 | ||
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二ノ丸東ニの門跡の城内側から外側を撮影。枡形になっている。 | ||
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