名古屋城 天守その1

大天守の銅版張千鳥破風。三花懸魚は蕪懸魚(唐模様)を葵状に配したもの。懸魚の上には大きな徳川家の紋と小さな無数の紋がちりばめられている。




大天守北東隅櫓にみられる「加藤肥後守(改行)内小代下総」の刻銘。天守石垣を担当したのは築城の名人加藤清正で、その箇所を担当した家臣の名が刻まれている。

御深井丸東端から見た大天守。東面(向かって左面)に見えるエレベーターが少々いただけない。


戦後、天守東の松林(現在は無い)で天守の鯱の鱗(金!)が数枚見つかっている。
とりあえず、自分もうろうろしてみたが落ちてなかった。

唐破風下の隠石落。復元天守なので、実際に石落はつくられていないが、外観の形状はわりと忠実。

隠石落を下から見上げる。通常の石落はいかにも「ここに石落がありますよ」というものだが、屋根の上に石落を築くことによってほんのちょっと分かりにくくなっている。

確か大阪城にもあったと思うが、名古屋城にもバリアフリーの一環として外部エレベーターが備わっている。広く人々に見てもらうには有効ではあるが、もう少しやりようがあるのではないかと思う。
あくまでも個人的な意見ではあるが…。

大天守石垣。打込ハギの乱積となっている。なにか妙に密度があって、肉々しいイメージをうけてしまうのは腹が減ってたせいもある。




本丸中央部から撮影。大天守〜橋台〜小天守がバランスよく撮影できるが、観光客が多いとわらわら写り込んでしまうのが欠点。




本丸南側、御膳水井戸付近から木の枝をよけつつ撮影。大天守の迫力は少しなくなるが観光客が写り込みにくく、かたまり感も出る。大天守のエレベーターが写ってしまうのが残念。

ちなみにこれが消失前の天守。最上階の窓の形が異なる。小天守の雨樋も確認できる。
手前に見えるのは本丸御殿。

江戸期、天守消失原因の大きな原因の一つであった落雷。もちろん現代でもこれを避けるため、避雷針がつけられている。
ちなみに屋根の金鯱は手前(南側)が雌、奥(北側)が雄となっている。


尾張藩の財政が窮迫する度に金鯱の金が用いられ、純度の低い金に張り替えられた。この改鋳は1726年、1827年、1846年の三回行われたと記録されている。

維新後の金鯱
維新後、尾張藩は新政府に対し、金鯱の献納を申し入れ受理された。1871年、金鯱は天守から降ろされた上、東京に運ばれ宮内省所管となる。その後、一尾は東京を皮切りに全国の博覧会に、もう一尾はウィーンの万博に出品され大人気となった。
人気者ながら、あちこちたらいまわしにされていた金鯱だったが、1878年から返還世論が高まり、伊藤、関戸、岡谷ら有志によって宮内省に返還の願書が提出され、同年聞き届けられた。こうして7年振りに名古屋城天守に金鯱が復活することとなる。
ちなみにウィーンに出品された一尾は帰国の途中で運搬していた船が沈没、金鯱も海に沈んだが引き上げに成功し無事帰国したとされる…が。
維新後何度も危うい橋を切り抜けてきた金鯱だったが、昭和20年の天守焼失時に溶けてしまった。

大天守に入る為には小天守から橋台を渡って入るしかない。大天守入口右上の唐破風は隠石落となっている。

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