鎌倉時代からの豪族、遠山氏が遠山谷の和田平に築いた城。築城のこの年、遠山家は信濃に侵攻してきた武田信玄の傘下となり、信濃先方衆として主に徳川家康を相手に戦ってきた。その後二代目土佐守景直は徳川家に下り、1596年加増をうけている。その際、箸を茶碗に置いたのを家康が珍しがり、遠山土佐守家の家紋とするように命じられたのは有名。
景直は大阪の陣にも出陣し遠山家最盛期を築いたが、その死後、子の景重は跡継のないまま若くして病死、跡目をめぐる同属同士の争いに領民の一揆等が重なり、遠山家は幕府から家不取締の咎で領地没収となり、その後一国一城の令により廃城となった。以後この地は維新まで天領となった。
この地方で有名な霜月祭りにも、滅びた遠山土佐守一族は死霊役として登場している。
城跡には遠山郷土館として「和田城」が建てられているが、これは全く史実とは関係ない。この郷土館の隣にある龍淵寺は遠山氏の菩提寺で一族の墓と看板が建てられている。裏手にある盛平山の頂上削平地は物見台の跡。 |