1560年武田信玄が上杉謙信に備えて千曲川のほとりに前進基地として築城した。当時は海津城といわれ、家臣の高坂昌信に守らせている。平城ではあるが、千曲川を天然の堀とし、三方を山で囲まれたこの城は見かけ以上に堅牢な造りであった。
1561年の第四次川中島の戦いでは2万とも言われる兵力を入城させ、妻女山に陣をはった上杉軍と対峙した。
1582年武田家を滅ぼした織田信長はこの城に森長可をいれて城主としたが、わずか2ヶ月後に本能寺の変が起きると、長可は城を捨てて旧領に戻った。
関ケ原の後、長可の末弟である森忠政が城主となり名を「待城」と改める。1603年忠政の転封で家康の六男松平忠輝が城主となるが、家康の不興を買い、高島城に流された。
1622年上田から真田信之が10万石で入城、以後幕末まで続く。1711年「松代」に改名。
明治5年廃城となり、城内の建物は払い下げられていった。翌年残っていた御殿が放火により焼失。以後城跡には石垣の一部などを残すだけとなっていたが、2004年、門や石垣、堀の一部などが復元・修復された。 |