天目山古戦場 | |||
東山梨郡大和村田野 | |||
年月 | 1582年3月11日 | ||
対象者 | ○織田信忠・徳川家康vs武田勝頼× | ||
よく教科書等には「天目山の戦い」等と記載されているが実際にはほとんど戦闘という戦闘は行われていない。この戦いで武田勝頼・信勝親子は戦死、武田家は滅亡する(実際には信玄次男信親の家系が現在も残っている)。 1582年1月勝頼の義兄木曽義昌の離反に端を発した織田・徳川連合軍による甲斐侵入でもほとんど戦闘は行われなかった。それまで武田に属していた地方豪族の離反、加えて御親類筆頭穴山信君の離反でほとんどの城は自落していったためである。唯一の例外が勝頼の弟、盛信の守る高遠城であったが、これも結局は玉砕した。 勝頼は来るべき織田軍の甲斐侵入に備え、前年それまでの躑躅ケ崎城から韮崎の新府城へ居城を移していたが、この城も完成間もない状態で防御体制が整っているとは言えなかった。 勝頼は新府城を自ら焼いて、小山田信茂の岩殿城へ向かったが、ここで小山田信茂の変心により行き場を失った。従っていた兵もほとんど逃亡してしまい夫人侍女を含めて50人ほどとなっていた。最後は田野という所に簡単な柵を設けて陣を張っていたが、織田軍先鋒の滝川隊と小規模な戦闘が行われここで戦死した。 信長は嫡男信忠を総大将とし、自らはのんびりとでもいうような足取りで甲斐に向かった。信忠がわずか一日で高遠城を落とした報に「梨地蒔御腰物参らせ候。天下の儀も御与奪なさるべき旨仰せらる(梨地蒔の太刀も天下も与えよう)」と大喜びをしている。 設楽原の時とは異なり勝利を疑っていない余裕が見られる。 土壇場で勝頼を裏切った小山田信茂は信忠の呼び出しに応じ、人質を連れて出頭した所を切られた。また御親類衆筆頭でありながらこれも勝頼を裏切った穴山信君は本能寺の変の際に徳川家康と堺にいたがここで家康と別行動をとり、土豪によって殺された。信君については家康による暗殺説もあるが、自身も命からがら三河に戻っている状況でそこまで指示しえたか疑問が残る。 |