クリックすると詳細が見られます新府城
韮崎市中田町
築城/廃城年 1581年/1582年
築城者 武田勝頼
織田信長の甲斐侵入が避けられない事態となり、それまで居城としていた躑躅ケ崎館では防御の点で劣る為に真田昌幸を築城奉行として築かれた城。七里岩と呼ばれる断崖の台地上に築かれ、弱点である城の北側には敵に対し多面から攻撃する為の出構等、防御に力を入れて建てられた。突貫工事であった為、戦国末期に新規で築かれた城としては珍しく石垣等は用いず土塁と堀を中心とした縄張となっている。
しかし御親類衆穴山信君の変心等により多方面から敵の侵入を受ける事となった勝頼は、完成間もなく防御体制の整わないこの城でのを防御をあきらめ、城に火を放ち、小山田信茂の岩殿城へ向かったが、さらに小山田の変心で行くあてを失い天目山の麓、田野で戦死した。


城の規模は東西550m、南北600m、本丸は堀から80mの高さにある平山城。