一乗谷 その3 

一乗谷に残る、四つの庭園の一つ、「南陽寺庭園」跡。発掘作業で仏殿や庫裏等の建造物の存在も確認されている。


 説明板

 
朝倉館の山手側にある英林塚。一乗谷朝倉の初代と言われる孝景の墓。四代目も同名である為、混乱しがち。


四つの庭園の一つ「湯殿庭園」跡。四代孝景の頃に築かれたとされている、廻遊式林泉庭園(庭に築いた大きな池を鑑賞して楽しむ形式の庭)。導水路・排水路を備えていたのが確認されている。

「湯殿庭園」説明板より。
本庭園は、一乗谷で最も古い4代孝景の頃の、廻遊式林泉庭園である。
庭池は南北に細長く、汀線は複雑に入り組んだ形で、周囲には山石の巨石(凝灰角礫岩)による護岸石組や滝石組、三尊石組などの豪快な石組がなされている。滝副石は左右ほぼ同じ高さで、水落石は1段、滝口の前には、水分石がある。導水路が発掘され、往時は池に水がたたえられていたことが分かった。
中島は亀島、西端の大石は鶴石ともいわれる。
右方には園路の跡があり、池尻付近には橋挟石に相当する石もみられ、石橋が架けられていたと推定される。排水路の出口は空濠石垣で壊されている。
観音山を背景に、林立する苔むした庭石群は、一幅の水墨画を連想させる。

中央やや下の石は池端の石が転がり落ちたものとして間違いないものらしいが、特別史跡である関係上、手を加えるわけにはいかず、そのままにしてあるという。


湯殿庭園付近(西方向)から見下ろした「朝倉館」。山手以外の東・南・北には堀と土塁、門が設けられており、東西100m・南北120mの敷地を持つ。土塁内側には主殿・会所・台所等、17棟の建造物が建てられており、通りに面した隅には櫓も設けられていた。
舘跡からは便所がみつかっておらず、おまるのような箱に排泄物を入れ、毎日捨てていたのではないかとされる。


 パノラマ

上から敷地の南東部分の庭園跡を臨む。

敷地内から庭園跡を撮影。他の庭園は古くから岩等が露出しており、庭園であったことが確認されていたが、この庭園は発掘調査によって初めて確認された。規模は小さいが、山手からの導水路で水を引き入れている。

中庭にあった日本最古とされる花壇跡。花粉等が採取されて、花壇跡と判明した。

館南側の義景墓所。最後は信長の猛攻の前に戦いらしい戦いもすることができず、親族の裏切りにあって自刃した。
このあと、一乗谷は平泉寺の焼き討ちに遭い、埋もれていった。

南西の中門跡。北門・西門に比べると、妙に切り込みが浅くなっており、馬では入れないようになっている。

倉庫跡。
湿気対策の為、一面に石が敷かれている。

敷地内から西隅の櫓跡を撮影。城郭都市内の館にある櫓なので規模もたいして大きくなかったようだ。

櫓跡に登って、北西の土塁と堀を撮影。堀に架かる橋は西門(唐門)に架かる橋。

西門(唐門)。朝倉氏が居城した時代のものではない。秀吉が朝倉家の菩提を弔う為に寄進されたとされており、豊臣家と朝倉家の紋が刻まれている。
現在の門は江戸時代に築かれたものらしいが、埋もれていたとされる一乗谷は当時、どのような姿を見せていたのかが非常に気になる。

唐門裏側に見られる豊臣家「五三の桐」紋。なぜ秀吉が朝倉家の菩提を弔ったのかも非常に気になる。

唐門表側に見られる朝倉家「三ツ木瓜」の紋。

唐門付近から敷地内を撮影。
中央付近の竹薮(緑の明るい部分)の向こう側には道が通っており、分かりにくいが土塁になっている。

唐門横から顔を出していた蛇。グラデーショントカゲといい、なにやら爬虫類天国の様相を見せる。

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