クリックすると詳細が見られます福井城
福井市大手三丁目
築城/廃城年  1606年/維新
築城者 結城秀康
福井城築城以前、この地(よりやや南側)には織田家家臣柴田勝家による北ノ庄城が築かれていたが、勝家は1583年賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れると、城に戻り自刃、城も陥落炎上した。
その後若干の改修が行われたようで、丹羽氏、堀氏、青木氏が短い期間であるが城主となっている。1601年、前年に越前68万石を与えられていた家康次男結城秀康は旧北ノ庄城の立地、城下町の踏襲の観点から新城選定をこの地に定めて築城を開始。普請奉行として清水好正が任命された。本丸・二ノ丸は秀康の父、徳川家康によるものとされる。築城は全国諸大名の普請手伝も行われ、1606年完成した。

初代藩主は家康の長男亡き後、長子であったにも関わらず徳川家を継げず、失意のうちに梅毒で若死、その跡継ぎである忠直は乱行により豊後へ配流と、御三家に準じる家格からすると順風満帆な家の始まりとは言えなかった。暗にそれを感じとったのか、1624年3代藩主忠昌(忠直の弟)の時、それまでの北ノ庄城という城名の「北」が敗北に通じるということから福居城へと改名された。後(寛政年間?)に現在の福井城となっている。当初、四重五階の天守が築かれていたが1669年の大火で焼失し、それ以降は再建されていない。


維新後、城内の建物は取り壊され、内堀を除き堀の大半も埋め立てられた。城内には県庁が置かれ、堀や石垣、天守台など一部を除いて当時の遺構は残されていない。その石垣も1948年の福井大地震で一部崩落・損壊した。現在は修復がなされているが、控天守台などは当時のまま保存され、地震の恐ろしさを伝えている。