現存天守閣十二城で最古のものとされており、重文指定。
1576年、織田家重臣柴田勝家の甥、勝豊によって建造された。五角形の縄張りを持ち、本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸が連郭式に連なる一二三段を持つ。天守は二層三階の望楼型独立天守で、豪雪地帯らしく、瓦には石瓦が用いられている。
信長亡き後の清洲会議で勝豊は長浜城に去り、城には不破氏が入った。勝家が秀吉と争って滅びると、織田家重臣丹羽氏北ノ庄城の支城となり、城代青山氏が入った。
その後、関ケ原を経て、家康次男結城秀康の家臣、今村氏が城代となったが失脚し、本多氏が城代、秀康の移封に伴い、そのまま城主となった。本多氏が四代続いたが騒動で所領没収され、有馬氏が入り八代続き維新を迎えた。
維新後取り壊しを免れ、国宝にも指定されたが、昭和23年の福井大地震で倒壊、同30年に古材を使った復元修復が行われた。
天守が建つ小高い丘は現在も残されているが、住宅化に伴って堀等は埋め立てられ、その縄張りの遺構を見るのは難しい。 |