築城年については1500年竹腰氏、1535年宮川氏によるものと両説がありはっきりしない。一時織田家の所有となっていた時期もあったが、1563年斉藤家西美濃三人衆の一人、氏家直元(ト全)に与えられ大規模な改修を行っている。その後直元は織田家に降り、所領も安堵された。
信長の死後、氏家家は移封となり、池田恒興・元助・輝政と池田親子、豊臣秀次・秀長と秀吉の一族が入城した。更に城主の変遷は続き、1585年一柳直末が城主の時に天守が築かれた。
1600年伊藤盛宗の時に関ケ原の合戦が勃発、三成の二度に渡る城の明け渡し要求に対し盛宗は渋々開城、西軍の本陣となった。
その後西軍は攻城戦を苦手とする家康に関ケ原へ誘導され破れた。城は三成の娘婿福原長堯が守っていたが東軍の攻撃を受け開城した。
その後城は家康家臣の石川康通に与えられ大垣藩5万石がスタートした。石川氏が3代、松平2代、岡部2代、松平1代と城主は頻繁に変わっていったが、戸田氏鉄が尼崎より入城、所領も15万石となってからは戸田家が11代続き維新を迎えた。
維新後、堀は埋められ石垣等も撤去されたが、天守閣と櫓は残され国宝に指定されていたが、昭和20年空襲によって焼かれた。昭和34年の天守閣をはじめ、櫓や門が復元されている。 |