織田信長の居城として有名な城。築城は古く、鎌倉時代に遡る。政所執事二階堂行政が居城として築き、以降同様に執事が五代居城した。有名な「稲葉山城」の名は四代稲葉光資の時から。その後、長らく城主を持たず廃城同然となっていたが、室町時代に入り美濃守護代斉藤利永が修復を行い居城とした。その後利永が加納に城を移したため、再び廃城同然となっていたが、土岐氏の家臣長井新右衛門尉、その子斉藤道三が大規模な改修を行ない居城した。その後主君であり、自ら助けて守護職につけた土岐頼芸を追放して名目共に美濃の主となった。
尾張の実力者織田信秀は幾度となくこの城に攻め込んだが、稲葉山城の固い守りと道三の戦略によって城を落とす事はできなかったが、道三の娘帰蝶の信長への輿入れを機に両家は親密な関係を結ぶようになった。1556年道三が嫡男であり頼芸の落胤とされる義龍のクーデターによって討たれると再び織田家との間で交戦状態となった。
道三は生前、自分の息子達が信長に下されるであろう事を予測していたが、その予想に反し義龍は幾度となく攻め込んで来る信長を撃退し続けた。しかし1561年義龍が病没し、跡を継いだ龍興の代になると一時期だけではあるが家臣竹中半兵衛重治のクーデターで城を占拠されるなど勢力は落ちていった。1567年、信長の攻撃を支えきれず、城を捨てて脱出し城は信長の手に落ちた。
城を手に入れた信長はそれまでの清洲からこの井ノ口(当時の地名)に本拠を移し、「岐阜」と改称、城の名も「岐阜城」と改められた。山の麓には四階建の居館を構えられ、その壮大さに宣教師達は驚愕したという。天下人への道を着実に歩む信長が本拠を安土に移した後、城は嫡男の信忠に譲られた。しかし1582年本能寺の変で信長・信忠親子が倒れると、城主は岐阜を領した信長の三男信孝に移った。この信孝も織田家の相続を巡って次男信雄と争い結局破れて自刃した。その後秀吉が天下を握ると城主も池田元助、池田輝政、羽柴秀勝とめまぐるしく変化した。
1592年信忠の長男秀信が城主となり再び織田家の城として返り咲いたのも束の間、1600年関ケ原の戦いの前哨戦で東軍の攻撃を受け落城、この地に封じられた奥平信昌は山上の城を嫌い、加納に築城を行った為、1601年廃城となった。
昭和31年、金華山山頂に史実には基づかないが模擬天守閣も建造され、山麓は現在岐阜公園として整備されている。 |