岩崎城 その2

階段下側から撮影した模擬天守閣。
本丸から撮影した模擬天守閣。

丹羽勘助・古城の跡碑。
1907年に丹羽氏菩提寺の住職隆城和尚が有志からの寄付を受けて建てたもの。

調査時に土塁下から偶然発見された古墳で、その名も「岩崎城古墳」。6世紀の初期に作られたらしい円墳で副葬品の小刀や坪も発掘された。


大きくはないが遺跡がしっかりしてるので感心していたが説明を読むと、あまり保存状態がよくなかったようで近辺の古墳を参考に模擬的に復元されたものらしくがっかり。
最初見たときはかなり感動したが模式的な復元。それでもそれなりに廃墟スピリットは高まる。

本丸に建てられている「岩崎城の建設碑」。
廃城後、荒地となっていた城跡を現在の城跡公園として整備した経緯が書かれている。


 拡大図

櫓台への階段。現在の天守閣はあくまでも模擬天守閣であり、実際に建造されたものではない。
この櫓台跡に建てられていた櫓が物見台として天守閣にあたる役割をはたしていたと思われる。
櫓台。特に遺構らしきものは見つけられなかったが、説明によると高さ5.5m程人工的に盛り土をされたものらしい。

「表忠義」碑。
1910年に旧尾張藩士が建てた碑。題字は最後の将軍徳川慶喜によるもの。


丹羽氏重・加藤景常(忠常・長久手城主)以下、玉砕した者の氏名が刻まれている。

徳川慶喜による題字。慶喜は徳川家の天下取りに大きく寄与したこの城の戦いの碑の題字は書いたが、徳川末期に幕府の為に戦った新撰組の碑の題字は結局書かなかった。

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