上野市
伊賀上野城
津市
津城
渡会郡
田丸城





クリックすると詳細が見られます津城
津市丸之内
築城/廃城年  弘治年間(1555〜1558年)?/維新
築城者  細野藤光・藤敦
湊町として開けていた安濃津にこの地方を治める長野氏の一族細野藤光・藤敦が築城したのが始まりとされる。
その後、織田信長による伊勢攻略により、長野氏は信長の弟、信包を養子として迎える。信包ははじめ上野城を居城としたが、後にこの地方の中心である津城に移った。信包は城郭の拡充を図り、石垣や堀の整備、五層の天守建造を行った。
本能寺の変で信長が倒れると、信包は秀吉に仕え加増を受ける。しかし1595(文禄4)年秀吉の機嫌を損ね、柏原に減封となった。後には富田知信が津5万石を領して入城。


1600(慶長5)年8月、知信の子信高は家康の上杉家討伐に従軍。石田三成の挙兵が明らかになると家康の命により急遽帰城する。伏見城を落した西軍毛利秀元・長宗我部盛親の率いる三万余の軍勢は津城への包囲・攻撃を開始、激しい攻防戦となる。


この攻防戦では信高の妻も鎧兜を身につけ共に闘い、数名を手にかけたとされる。現在ではあまり知られていない話であるが、江戸から明治期にかけては賢妻として読み物や絵画でも多く取り上げられ、人気を博している。


信高は城兵千余名という寡兵ながら大軍を相手によく防いだが、衆寡敵せず落城寸前となる。結局、攻城三日目に高野山木食上人の仲裁で開城し、城は西軍のものとなった。しかし、一ヶ月後の関ヶ原で東軍が勝利したため、開城後高野山に登っていた信高は津に戻り、二万石の加増を受けた。
城の攻防戦で五層天守をはじめ、城内の建物はほとんどが焼失してしまっていたが、信高は三層の天守を再建するなど、城の再整備を行った。


1608(慶長13)年、信高は宇和島に加増移封され、後には宇和島から藤堂高虎が入った。高虎は伊賀上野城の整備を行ない、これを有事の際の城とし、平時はこちらも信高時代から大きく手を入れた津城を居城とした。この時は主に本丸北側の拡張、東・西ノ丸の整備、櫓・多門櫓の建造が行われている。さらに参宮街道を城下に取り込み、城下町を発展させた。
以後藤堂家12代が続いて維新を迎えた。維新後城内の建造物は入札で売却後に取り壊されて、当時の建造物は藩校の門(これも移築)のみである。