南北朝時代、伊勢神宮や吉野にも近い上、外港を有する地であったため、南朝側の拠点として北畠親房によって築城された(当時は玉丸城と称す)。結局、戦の拠点となることはなかったが、親房の三男顕能が伊勢国司となり、城の建設に協力した愛洲氏の居城となった。愛洲忠行は北畠氏の男子を養子として貰いうけ、国司北畠家の一族となる。
1575年織田信長は北畠家を攻略、当主具教は降伏の条件として信長の次男信雄を養子として隠居した(翌年具教はじめ一族の主たる者は粛清されている)。信雄は北畠城の本城をこの城(田丸城と城名変更)へ移して三層の天守を築くなど、大規模な改築を行ったが、1580年火災で城の大部分が焼失してしまったため、本城を松ヶ島城へ移した。
1584年蒲生氏郷が日野からこの地に移封されると、属将であり前城主であった北畠忠顕を城主に復帰させたが、1590年氏郷の会津転封に忠顕も従ったため、城はしばらく空いたままになっていたようだ。
関ケ原後に稲葉道晴が、大阪の陣後には藤堂高虎がこの地を領した。
1619年徳川頼宣が和歌山を領すると、家老の久野宗成に一万石を与え、この田丸を治めさせた。その後久野氏が八代続いて維新を迎える。
建造物のほとんどは明治に入って取り壊されてしまい、外堀も埋められてしまったが、内堀や石垣など縄張が良く残されている。建造物がないため、それほどメジャーな城ではないが、城好きには一見の価値がある城である。
豆知識
築城者北畠親房は、南北朝時代南朝側についた公卿。長子顕家と共に、南朝の切り札として活躍した。特に顕家は足利軍を数度に渡って破るなどの武功を見せた上、戦死する直前には天皇に向けて建武新政の欠点・弱点を堂々と批判する上奏文を出している。
楠正成や新田義貞ほどの知名度はないが、コアなファンが多い。 |