設楽原(長篠)古戦場

復元された連合軍の防馬柵、写真は連合軍側から撮ったもの。武田軍は田の向こう側から突撃してきた。


写真には写っていないが柵の向こうには壕が掘ってある。



防馬柵の傍にある土屋昌次の碑。
【設楽原古戦場いろはかるた】という案内の仕方がしてある。


土屋昌次(1545-1575)
武田信玄の死没時に殉死を願い出たが止められたエピソードを持つ。

柵の近くに立つ柳田激戦地の石碑。
もちろんここにも【いろはかるた−ぬかるみに馬もしりごむ連吾川】

甘利信康の碑


甘利信康(?-1575)
主に荷駄隊の任務についていた模様。
配下武将の米倉重継について新田次郎が小説「弾丸よけ竹束之介」で書いているが、武田軍の組織のあり方についても分かりやすく述べてあり、お勧めの本。

原昌胤の碑


原昌胤(?-1575)
陣場奉行を務める。陣場奉行は戦術的な作戦について担当すると聞いたがはっきりしないので誰か教えて下さい…。

小幡信貞の墓


小幡信貞(1541-1590)
墓があるが設楽原の戦いには参加しているが生き残り、武田家滅亡後は織田家・北条家と仕えた。

山県昌景の碑


山県昌景(1529-1575)
もとは飯富姓。兄の飯富虎昌(信玄の長子、義信謀反の連座で切腹)没後に山県家を継ぐ。
俗に言う「赤備え」を率いた事で有名。

愛知の城次頁
//