高知市
浦戸城
高知城





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高知市丸ノ内
築城/廃城年 1602年/維新
築城者 山内一豊
現存天守閣が残っている十二城の一つで、天守閣のみならず御殿も残っている貴重な城郭。
築城者山内一豊は尾張で織田家臣山内守豊の次男として生まれた。どちらかというと穏便に物事を済ませていくタイプだったようで、特に華々しい戦いぶりは無かったが、39歳で長浜三万石、44歳で掛川五万石とコツコツと小さな出世を続けていった。
秀吉政権下では穏便な性格と誠実さを買われ、秀吉の甥秀次の補佐役もまかされたが、秀次の失脚で一時は責を負わされかけた事もある。秀吉の死後は徳川家康に接近、東軍からの密書を家康にいち早く提出、また評定で領地と家族を質とする旨を表明するなど、自分の二心の無さを充分にアピールした。関ケ原前夜、大名達の動向に非常に神経質になっていた家康はこの一豊の表明によほど救われたようで、かくたる戦役もあげていないにもかかわらず、戦後、一躍土佐二十四万石の太守となった。
最初一豊はそれまで土佐を領していた長宗我部氏の浦戸城に入ったが、海と山に挟まれた城は城下町の形成が難しかった上、新たに自分の家臣となる長宗我部旧臣のあきらかな反抗的態度もあって、長宗我部家のシンボルでもある浦戸城を破却、大高坂山に新城を築いた。築城奉行は築城の名人と言われた百々綱家で、1601年から築城を開始、三ノ丸完成で城全体が完成するのに、およそ10年を要した。
その後、一豊は長宗我部旧臣の有力者を謀略を用いて抹殺、以後藩の重臣は掛川時代からの家臣のみ充て、旧長宗我部家臣は郷士として一線を引かれる事となった。幕末、彼ら郷士から幕府を揺るがす人物が輩出されるとはこの時一豊は思わなかったであろう。


やがて城下町も整備され発展を遂げたが、1727年の大火で天守・本丸・二ノ丸・三ノ丸は焼け、城下町も壊滅状態となった。天守閣は1748年に旧来の形状で再建され、現在に至っている。