蓋井島 その1 (2007/4) |
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【乞月山山頂の観測所内部】 |
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下関の北西に浮かぶ島、蓋井島は神功皇后も訪れたという古い歴史と伝説を持つ島である。 明治期、ロシアとの関係が緊張状態に入ると、日本各地に要塞が建造された。その一つが現在の北九州・下関、両市にまたがる下関要塞である。蓋井島にも大正から昭和にかけて、敵潜水艦より海峡を警護するために陣地が増備された。 太平洋戦争が終結すると、下関要塞の遺構の多くは宅地化の波に飲み込まれたり、公園として整備されるなどして当時の雰囲気を薄れさせていった。しかし、本土から遠く切り離されて人口も少なく、特別な産業や観光地もない蓋井島はそうした動きから取り残された。島の南北の山間地帯には民家も施設も築かれないまま、当時のトーチカや砲台の跡が残されている。 下関要塞や軍艦堤防訪問でお世話になった望月さんのHP「戦捜録」を参考にさせていただいて探索した。時間の関係で島の南部、乞月山(観測所や砲台座跡が残る)だけの探索となったが、遺構の保存状態は大変良好で、当時の雰囲気を色濃く残している。島の概要などについても望月さんよりアドバイスをいただいたことを追記しておく。 |
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下関市吉見港から連絡船で約35分。 さすが波の荒い日本海、出港後約15分で強烈な船酔いが始まる。 最初ははしゃいでた同乗のおばさん達も、その頃には無言となる。 「あ、吐いた!」というおばさんの声と共に漂い始める胃液臭。猛烈な吐き気を抑えてなんとか乗り切ったが、あと10分乗ってたら、自分もチーム・ド・ゲロのメンバーとなっていたことだろう。 筆皇、イアンも同様の様子だったが、人の事など構っていられる状態ではなかった。 |
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屈辱の船酔いゲロは何とか避けられたものの、3人共港到着後しばらくは動けないまま。 意識が戻ってくると、目の前になんともローカルな立体説明板があるのに気づき、とりあえず撮影。しかし、まだ字が読める状態までは回復できず。 真正面から撮ると全く立体感がない。 |
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何とか動けるようになったので、ゆっくり歩き出す。バラックの中に吊られた干物がうまそうに思えるくらいの回復。 | ||
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島でよく見られるナンバー無しの車。 ナンバーがないくせにドアには「たつやの車」…。なんとも自己主張の強い車だ。 |
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島の南端、乞月山に向かって海沿いの道を歩く。筆皇は趣味のジャグリング、イアンはいつもの仏頂面。 | ||
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峰不二子チックな乞月山。 望月さんのHP「戦捜録」は事前に見てきたけれど、いまいち道が把握できていないまま。とにかく到達までは悪路続きらしい。 |
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海沿いの突堤跡。戦時中のものらしい。 大きい写真 Yahoo地図 |
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ビッド跡の残る突堤先端部分。 天気良好、風微風、波もそれほど立っていないように見えて、しっかり船は揺れた。 |
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港反対側から突堤を撮影。 側面の石積み、傾斜が見て取れる。 |
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舗装してあるのかされてないのかよく分からない道を歩く。 ここまで島の西岸を歩いていたが、乞月山北側を横断して、島の東岸へスイッチ。 Yahoo地図 |
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道無き海岸沿いを南下。 右手に見えるのが乞月山。山頂付近に要塞跡があるらしいのだが、登り口は見つからず。 |
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海岸には水切りに適した石がゴロゴロ。筆皇、しばしサブマリンを満喫。 | ||
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海岸には朝鮮半島から漂着したゴミが散らばっていた。最近日本海側で問題となっている朝鮮ゴミだ。 | ||
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海際まで張り出したコンクリートの上を歩く。結構高くて怖い。 この時は引き潮気味だったが、満潮時であれば海岸沿いは歩けず、こうした高い位置ばかりの移動になるところであった。 コンクリートはいつの時代のものか不明。ただこの付近に現在の島民の施設は見当たらないことから、戦前・戦中のものと思われる。 |
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だいぶ崖が海際まで迫ってきており、何カ所か海に入らないと通過できなくなってきた。 | ||
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