大久野島 その2

こうしてみると何やらローマ時代の遺跡にも見えないことはない。

砲台跡。
南部砲台跡は整備されすぎることもなく、適度に寂れていい感じなのだが、いかんせん見どころというものに欠けるのが残念なところ。

明治期の砲台跡でよく見かける掩蔽部。多少の違いはあるにせよ、基本的には同フォーマット。要塞跡には妙に淡白な大久野島、ここのものは半分埋まっていた。

入口近影。しゃがんで入れないこともないが、入っても特別変ったものはないと思うのでここまで。

中部砲台跡に向かって歩いてる最中に見かけたコンクリート標柱。神社でよくみかけるのに似ていた。
大久野神社は工場を作る際に移転されているので、移転される前の場所なのかとも思ったがよく分からない。

島の最高地点にある展望台。
観光地には全然展望の利かない、名ばかりの「展望台」も多く見られるが、ここの展望台は当たり前ではあるが展望も利き、居て気持ちの良い場所でだった。

展望台から中部砲台跡を臨む。鉄塔の手前辺りに残っている。

中央に見えるのが小久野島、奥には瀬戸内海の島々を臨む、風光明媚な展望台。

小久野島から視線を左に向けると、大三島。瀬戸内海の島は小さな島ばかりだと思っていたが、結構大きな島だった。

展望台の床に置かれた付近の地図。中央の小さな島が大久野島、南側の大きな島が大三島。大久野島へは本土の忠海港からだけでなく、大三島からも船が出ている。ただし便数は少ない。

島のほぼどこからでも見える、昭和37年に作られた、高さ226mの大鉄塔。この大鉄塔の麓に中部砲台跡が残っている。


以下中部砲台説明板より転載。
この中部砲台は、日露戦争前の1900年ごろ、旧陸軍によって築かれたものです。大久野島には、ここの4門のほかに、南部に4門、北部に8門の、合わせて16門の大砲がすえ置かれて、芸予要塞としての役目を果たしていました。これらの大砲は、第一次世界大戦のとき取りはずされて前線に送られたということです。なお、ここに使われている赤レンガはロシアから輸入されたものだと言われています。当時築造された全国の砲台のなかでも、大久野島の砲台は、最も完全な姿を残しています。

ずらっと並んだ7連の掩蔽部。写真を撮ると、奥の鉄塔が邪魔。
毒ガス製造時代は製造された毒ガスがドラム缶に入れられ置かれていた。

中はお約束の連結通路で繋がっている。あちこち落書きが多い大久野島ではあるが、ここの内部は落書きされていない。

ちょっと食傷気味のカット。
友ヶ島と比較して漆喰の保存状態が良いのが大きな違い。

恐らく浄化装置跡。立入禁止の札があっても、立入には割とプアな大久野島ではあるが、水難事故防止のためかここだけは金網まで張ってある。

煉瓦の風化も少なく、保存状態は良好。ただし正面から見るとどこの要塞のものか分別するのは至難の技。

中部砲台28cm瑠弾砲が6門装備されていたが、現存する砲台跡は4門。

流して見学すると見落としてしまうが、上の写真の中央付近に通路の入口がある。

5mほど通路があり、左手に部屋が見える。

土の流入が激しい部屋の内部。
懐中電灯を忘れてしまったので、フラッシュを焚く一瞬だけしか中の様子を見ることができなかった。奥まった部屋なので、通気口が部屋の大きさの割に大きい。

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