大久野島 その1

「毒ガス島」とも称される通り、昭和初期から陸軍「東京第二陸軍兵廠忠海製造所」として毒ガスの製造を行っていた島。もともとは明治30年代から芸予要塞の一角として砲台施設が置かれていたが、こちらは大正末期の軍縮で廃止されている。毒ガス製造所時代はその製造を秘匿するため、地図から島周辺が消されており、「地図から消された島」とも呼ばれる。島内には製造所をはじめ、貯蔵庫・研究所・発電所など多数の施設が建造されたが、
終戦後米軍により施設の大部分は解体された。一部の施設は毒素除去のため火炎放射器で焼かれ、現在もその痕跡を留めている。

広島県の忠海港からフェリー(または高速艇)で12分、瀬戸内海の小島、大久野島へ到着。島には休暇村の宿泊施設があるが、住人はいない。レンタサイクルなど、島の活動の中心となる休暇村へは数百m離れているため、船と接続して休暇村行の無料バスが出ている。
毒ガス製造時はこのあたりにドラム缶などに詰められた製品が置かれていたようだ。現在も入口が閉ざされた壕などがあったが、写真撮り忘れた。

現在島の呼び物である兎が群がってくる。冬なら首に巻きつけてやりたいところだったが、暑い日だったので用無し。

兎にも色々な性格なものがおり、人懐こいもの、小心者、他の兎を追い掛け回すジャイアンラビットなど様々。

瀬戸内海=赤潮というイメージだったが、晴天のせいもあって、とても良い景色が広がる。

休暇村まで歩く、島の約半周を幅広い道路が整備されているが、一般車は乗入禁止。連絡バスと職員の車がたまに通るだけなので、のんびり歩ける。

厳重に扉が閉ざされている通信壕。特に説明板などなかった。

5分ほど歩くと見えてくる大久野島毒ガス資料館。大久野島が消されていた時代の地図や毒ガスの種類、当時島で働いていた人の証明書、防毒服などの展示と別室の映像がメイン。
建物の規模からすると、展示物の数はあまり多くないが、展示されていた会報などからすると活動は活発のようだった。

あまり時間がないので急がなければいけないのだが、あまりに良い景色についつい関係ない写真を撮りまくる。

島の最南端にある大久野島灯台。奥は先日原付で走りまくった大三島。

毒ガス資料館が開館前だったのであたりを散策。写真は資料館の南側にある大久野島神社の近くに建てられている慰霊碑。

修学旅行や遠足で訪れた小学生がかけていった千羽鶴。この日も7,8名の小学生の姿を見かけた。ひたすら自転車をこぎまくっていた。無限の体力が羨ましい。

大久野神社。
昭和7年、もともとあった島の神社を修復・移築したもの。鳥居には明治36年と刻まれてあった。

殉職碑。
資料を読むと、作業中誤って亡くなった人の死に方は壮絶だったようだ。

神社に奉納されていた額。大久野島らしく兎が描かれている。

本殿から鳥居を撮影、そのすぐ先は海。海際の神社というのもそれほど珍しくはないのだろうが、やはりアンバランスな印象を受ける。

南部砲台跡へ向かう最中に見つけたコンクリートの土台。

そのすぐ先で見つけたコンクリートの土台。こちらはボルトも現存。共に何の遺構なのか不明。

南部砲台。
大久野島は毒ガスの島としての知名度ばかりが高いが、芸予要塞の一翼として明治時代に建造された砲台跡もなかなか見応えがある。
説明板によると8門の砲台があったとあるが、この付近は4門。残りの4門は山を下った海際のキャンプ場のあたりに備え付けられていたらしい。そちらの遺構は見つけられなかった。

砲台跡近くに建てられていた柱。高い所に建てられていて、2門で1組となっている両方に建てられていた。


以下南部砲台跡説明板抜粋。
「芸予要塞として建設された砲台の跡です。芸予要塞は、軍事上重要な都市であった広島と呉を守るため、まだ日清戦争後の内海防備の必要性から、大久野島と南の愛媛県小島に作られました。大久野島には3ヶ所(北部・中部・南部)、他に対岸の忠海町・冠崎にも作られました。ここ南部砲台跡では全体で八門の大砲が置かれ、現在、四門の砲台跡が残っています。」

煉瓦で造られた排水溝らしきものも残っている。

元の画面次頁
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