友ヶ島(ダイジェスト) その1
(2006/10 和歌山市)

和歌山沖に浮かぶ無人島。「友ヶ島」と呼ばれているが、実際は沖島・虎島・神島・地ノ島の四島を総称したものとなっている。古くは修験僧の修行の場であり、虎島にその遺構が若干残されている。明治期になると大阪湾防衛のため、本土の由良地区と共に要塞化され砲台が建造されたが、実際に使用されることがないまま明治・大正・昭和を経て終戦後米軍により破壊された。これらの戦跡は現在もその姿を残している。
終戦後観光地化されたが、平成に入り観光客は激減し、現在は訪れる客は釣り客がほとんど。島へ渡る定期連絡船も平成18年11月をもって廃止された。


  A…港  B…蛇ヶ池  C…友ヶ島灯台  D…展望台  E…深蛇池
  1〜5…砲台  聴…海軍聴音所  虎…虎島堡塁

和歌山市街から北西へ10キロ余、友ヶ島への船が出る加太港へ。乗場は橋の下にあり、想像していた以上に分かりにくい。


写真では小さくて見えないが、漁協も不定期ながら船を出しているらしい。こちらは片道700円と割安。

片道15分の割には高い運賃。しかし友ヶ島は無人島で住人はおらず、観光客しか乗せないのでこういう価格設定となるのだろう。ちなみに2000円は往復料金。

通常期は約1時間に1便の連絡船。12月〜2月は土日と年末年始以外運休…、と言っても関係ない、なぜなら自分が訪れた約一ヶ月後のH18年11月で廃業となってしまうので。

それほど天気が良いわけではなかったが、波はおだやかで揺れも少なかった。そして乗船している15分間ずっと気になっていたのは…。

15分間、頑張り続けたこの露出好きハエカップル。

友ヶ島(沖の島)へ到着。無人島ながら観光客用の旅館が数軒見られる。訪問客の大半は釣り人のようだ。

連絡船は突堤に着岸するが、岸には戦前に用いられていた石をセメントで固めた船着場が残っていた。

港に残る明治期の碑。「明治三十二年」までは読めるがその後ろは読めない。隣には第三・四砲台で用いられたとされる8インチ砲弾が置かれている。

港の旅館兼食堂(左)と観光センター(右)。誰も住民票を置いていない無人島ではあるが、冬季以外は人が入る「半無人島」。

西に向かって歩いて行くと、戦前に建てられたと思われる煉瓦造りの建物があった。

第二砲台近くの蛇ヶ池。湿地帯となっているが、天気も良くないのでそれほど良い景観とはならなかった。

第二砲台。立入禁止部分も多いが、建物の規模もそこそこあって見応えがあった。

中世の城っぽい。こういう建物を見るとドラえもんの「ゆうれい城へ引っこし」を思い出す。えぇ話しだったなぁ。

海側は芝生となっており、景観良好。弁当を食べるには絶好の場所になっており、熟年グループが弁当を広げていた。おかげで少々写真が撮りにくかったのが残念。

徹底的に破壊された砲台ではあるが、これはこれで味がある。

建物の屋上部分。奥へ行くと階段で中に降りられる。

破壊された砲台部分。円形に残ったボルトがその跡を留めている。

西側の砲台部分。上の写真のものより破壊は少ない。

結構立体的で興味深い造りとなっているが、地下通路部分(?)は多量のゴミが溜まっている。発砲スチロールが多く、人為的に捨てられたものだけでなく、風や波によって運ばれたものも多いようだ。

弾薬庫から砲弾を吊り上げる為の揚弾井。見学ルートにあるものは蓋がされていて見られないが、ここは俗に言う「そういうところ以外」なので見られた。
ただし落ちると、ただではすまないだろう。

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