関ヶ原陸軍火薬庫跡 その5

土塁に囲まれた部分の一番奥にある「日本武尊の腰掛台」。

説明板を読む限り、傷ついた日本武尊がこの地で回復したように書かれてあるが、古事記によると養老で足が腫れ、四日市で足が折れ曲がり、鈴鹿で動けなくなって死亡した。

石碑。
誰か分からんが陸軍大将の人が揮毫したらしい。

正直どれが腰掛台なのか良く分からなかった。一応それらしき石がこれ。

土塁の隅部分。
腰掛台がある分、最初の土塁より若干整備されており、土塁の様子が分かりやすい。

少し下がった所から撮影。

足元を見るとコンクリート製の柱か基礎らしきものが横たわる。

遺構群の東側にある正門跡。
夏だとかなり草に埋もれてしまうが、冬であればまぁまぁ見られる状態となる。
一応説明板はあるが、近くに車を停めるところもなく、町がこの遺構をどう扱いたいのかやっぱりよく分からない。



反対側から撮影。
一応対になっているのだが、奥の柱は非常に見難い。

戦中のものでは無いため、造りも丁寧でしっかりしている。

門の近くには建物があったようで、基礎やレンガが落ちている。真冬に訪問すればもう少しよく分かるかもしれない。

コンクリートの建造物跡。
草木ではっきり分からないが、風呂っぽい感じというか、何らか水関係のような跡だった。

同じく建造物跡。
この門柱部分の撮影は春先だったので、草が邪魔で撮影しきれなかった。

門から道路を挟んで反対側に説明板がある。なぜ反対側かが分からないが。

説明板。
全体的に丁寧な説明板なのだが、整備のされ方が中途半端。残しておいてくれるのはありがたいが、もう少し見やすくしてもらえるとありがたい。
まぁその中途半端さで荒らされずにすんでいるのかもしれない。

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