関ヶ原陸軍火薬庫跡 その1
(関ヶ原町  2008/11)

関ヶ原の戦いや壬申の乱など、歴史のターニングポイント的な争いが行われた関ヶ原であるが、これは山に囲まれた盆地で多くの街道が集まるという地理的な要因が強い。大正3年(1914年)、この地に築かれた陸軍の火薬庫も「山に囲まれている」、「交通至便」などの要因があって築かれたものである。本州中央に築かれたこの火薬庫は陸軍の重要な火薬庫として、周囲6kmを鉄条網で囲い、一個小隊で厳重な警備が行われていた。
戦後はご多分に洩れず開発の波にのまれ大半の建造物は破却されたが、残った火薬庫や立哨台、土塁などの遺構は当時の姿をよく残している。


残った遺構については説明板も置かれているが整備の仕方が中途半端であるため、下調べをしていかないとかなり分かりにくい上、車が停めにくい箇所もある。あまり肩肘はった整備も困りものであるが、もう少しなんとかならないものか。
まぁ超有名な関ヶ原の戦いという観光資源がありながら観光協会が解散してしまう所なので、マイナーな火薬庫の整備が良好に行われる訳もないのだが…。

旧関ヶ原メナードランドから関ヶ原鍾乳洞にかけて火薬庫・立哨台等の遺構が残る。
写真は関ヶ原鍾乳洞駐車場南側から撮影。写真右手に立哨台、中央に火薬庫が見える。

火薬庫の監視を行う立哨台。
説明板によると往時は6箇所あったそうだが、今回確認できた立哨台は3箇所。

立哨台脇に立つ説明板。

とにかく狭い立哨台の内部。
煙突等、暖を取った形跡もない。
行った季節柄、冬は寒かったろうなと思う。もし夏に行っていたら暑かったろうなと思うことだろう。

立哨台内部天井部分。
目的と使用用途は不明だが、窓の下に更に小さい覗き窓のような穴がある。

火薬庫跡説明板。
簡単すぎず、詳しすぎず、非常に分かりやすい説明板。

関ヶ原鍾乳洞に一番近い、火薬庫跡その1。今回確認できたのは5箇所、全て徒歩圏内。

少し角度を変えて撮影。
戦後倉庫として使用されていたので、入口前もわざわざ舗装されている。

火薬庫内のイメージ図。
記憶と写真で何となく描いたものなので、寸法や形状などはかなりいい加減。あくまでもイメージということで…。

重厚な出入口部分。
上部のシャッターは戦後倉庫として使用されていた時につけられたもの。
(イメージ図【A】地点)

漆喰で塗り固められてた前室。
倉庫というか粗大ゴミ置場状態。誰の所有になっているのか知らないが、説明板をつけて観光用に開放するのであれば、こうした荷物は片付けておくべきだろう。

前室から外側を撮影。
ガラクタは置かれているが、保存状態はこの火薬庫(鍾乳洞すぐ南側)が一番良好。

火薬庫内は火薬を湿度や温度の変化から保護するため二重になっている。奥に見える出入口が火薬を保管していた本室。
(イメージ図【B】地点)

正面の通路が本室と外郭の空間で、本室のまわりをぐるっとまわっており、人が通ることができる。
(イメージ図【C】地点)

前室と本室の間の空間。
電灯等はなく、奥は真っ暗。
こういったあたり、町がこの遺構をどういった形で公開したいのかがはっきりしない。
扉やシャッターがないウェルカム状態になっており、説明板もあるのであれば、危険防止の為に電灯などつけるべきではないだろうか。


私見だが本当はこうした黙認型が一番ありがたい。しかしなにかと責任の所在が問われる現代、事故が起きたからといって安直に閉じられても困るし。

火薬を保管する倉庫だけあって、壁は結構厚い。本室の壁には格子状に鉄骨らしきものが張り巡らされているが、よく見ると木だった。
強度以外に何らかの意図があるのかもしれないが分からない。

本室内部。
最初は何も見えないが、しばらくすると目が慣れてきてだいぶ見えるようになる。

一番奥の部分。
天井に換気用(?)の窓が開いている。
この格子をじっと見てると「ヘルレイザー」に見えてくる。

戦争遺跡トップ次頁
観光トップ