芸予要塞 小島砲台跡 その2

島の観光資源として中心的役割を持つ建造物であるため、この発電所の屋根だけは張りかえられている。恐らく説明板がつけられた平成12年だと思われる。
古い煉瓦建造物と真新しい木の屋根、気持ちは分からないでもないがとても不似合い。

出入口がとても低く、かがまないと入れない部屋。倉庫かとも思ったが、それだと物の出し入れがとても不便。結局何の部屋か分からず。

小島砲台の調査設計を行った陸軍工兵中佐 上原勇作についての展示。
説明板によると、上原はフランス砲工学校に留学経験もあるインテリで、城塞学の権威とされた。小島要塞以外にも各地の要塞建設を指導し、後に陸軍大臣、元帥に叙されている。
内閣を総辞職させたり、ストライキ調なことを行ったりと、俗に言う陸軍チックな人物であったらしい。
加山雄三の曽祖父(ひいじいちゃん)でもある

壁には当時塗られていたであろう漆喰の跡がかすかに残る。

発電所の裏に建っている煙突。火力発電所であったので、そのためのものだろう。

どの島も猫は多い。この小島もご多分に漏れず数匹の猫を見かけた。なかなか毛艶の良い猫だったが、近寄ると逃げた。今度会ったら三味線だ。

発電所から少し島の中央部に入った所にある弾薬庫跡。

陸軍の標柱。明治32年の記述がある。

「弾薬庫跡」説明板。
弾薬庫跡は、はじめ山の傾斜面を現在の様に掘り下げて深い谷間のような窪地として、周囲は山肌で護られている。当時のモッコとスコップを用い人力でこのような工事は並大抵のことではなかったが危険な弾薬を貯蔵するためには周囲は強じんな防壁が必要でありました。小島の地質は閃緑岩計の岩石であるが、東側に斑れい岩が部分的にある。何れも有色鉱物が多いがこれらの岩石は風化しやすいために耕作には都合がよい土質である。以上のような地質であるために岩盤が軟らかいため、要塞工事には都合がよかったであろうと想像される。小島砲台の備砲は28cm榴弾砲と24cm加農砲の2砲種であったので、主にそれらの砲弾を備蓄するための弾薬庫であったと思われます。現在は屋根が落ちて煉瓦作りの側面が残るだけでありますが、弾薬という一番大事なしかも危険度の高い軍用品を貯蔵するために非常に厳重な工事と完璧な設計が施されていることがわかります。


この島の説明板は、文章が長い割にどうも焦点がずれているような気がする。

弾薬庫跡。
この小島は早い段階に廃止されていたにも関わらず、質量とも保存状態は良好。
ただ、ただ残念なのはこの説明板。どの建造物においても、なぜか「ここだ」というところに建てられている。
もちろんこの弾薬庫においても然り。「な、なぜこの位置に!」、この島で何回そう思ったことか…。

弾薬庫は万一の場合に備えて屋根が手薄になっている場合がほとんど。したがって年数が経つとこのように屋根が落ちる。
とはいえ、弾薬庫以外でも屋根は落ちやすいけど。


中はごらんの有様で一歩たりとも入れず。

弾薬庫ということで湿気を防ぐため、上げ床になっていた。他に方法がないとはいえ、こんな所にも煉瓦のアーチ。明治期の建造物は造りが細かくて絵になる。

「北部砲台跡」説明板。
大正15年8月17日の新聞の切り抜きに、「旧芸予要塞小島砲台爆撃演習第1日は15日に開始された。陸軍立川飛行隊と海軍霞ヶ浦航空隊からかわるがわるに飛来して爆弾透過の物凄いところを見せたが、わが国で要塞の飛行機爆撃はこれまでに前例のない壮挙で海峡は危険区域に船舶の通行を禁じて、呉軍港所属の駆逐艦数席が警戒し、さながら実戦の如く又陸海軍の爆撃腕くらべとも見られ、波止場公園や来島、馬島などの島々には多くの観衆が見物に集まっていた。」この記事は北部砲台への爆撃演習で、他の砲台は人家に近く危険であるので行われなかった。現在の砲台跡には爆撃によって破壊された跡が残っているが当時上原元帥は飛行隊の爆撃で俺の造った要塞は破れるものかと豪語したという。直撃弾も数発当たったけれども砲台全部は破壊することが出きず、現在の残っている一部の残骸に終わっている。爆撃は8月15日から1週間に行われた。この小島要塞は日露戦に備えて築造された芸予要塞の一翼で明治33年完成し、大正13年の軍縮で廃止され、爆撃演習に供された後、地元へ払い下げられたもので、全国で残っている砲台跡は小島だけであります。


しつこいようだが、この島の説明板の文章はとてもおかしい。


北部砲台跡の概略図①。風雨にさらされてかなり痛んでおり、結構見難い。
発電所跡からは山越え、谷越え、結構な距離と高低差がある。

砲座跡。
正直これといった感想が浮かばない。

地下壕内部。
太陽光が入るほんの一角から伸びる竹。こうした生命力がなければ種の保存は長く続かないのだろうなと思う。

井戸跡。
案内板と、落下防止柵がおせっかいで、何がなんだか分からない。とても昭和中後期な展示方法。

浄化装置跡。
島なので、真水の確保には苦労したことだろう。こうした設備で溜めた雨水を浄化した。

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