芸予要塞 小島砲台跡 その1
(2007/7 愛媛県今治市)

写真集用に訪問したが、ページの関係であまり紹介できなかった。せっかく行ったのにもったいないのでHPにて掲載。同じく訪問した大久野島や蓋井島と比較して、遺構自体は数多く残っているのだが、どれも中途半端な感は否めず、写真集でも扱いを小さくしてしまった。


日清戦争後、ロシアとの衝突が避けがたくなった明治30年代、日本の各地で要塞の建造がすすめられた。この小島も1900年(明治33)に大久野島等と共に芸予要塞に指定され、指令台・砲台・探照灯・発電所が設置された。しかし日露戦争では一度も使用されることがないまま終戦を迎え、1924年(大正13)の軍縮時に廃止された。1926年(大正15)航空機の爆撃演習に用いられたが、施設の一部を破壊されるにとどまっている。昭和40年代に観光地として整備された。来島者のほとんどは釣り客である。

今治市波止浜港、ここから来島〜小島〜馬島航路の船に乗る。まわりは船のドッグあり、大型船がたくさん停泊している。


時刻表はコチラ

来島〜小島〜馬島航路の船。まわりの大型船と比較するとおもちゃみたいな船。来島へは5分、小島へは10分、馬島へは20分の船旅。同乗者は釣人ばかり。


来島は海城として有名、遺構も結構残っているらしい。できれば行ってみたかったが…。

同じ乗物でこれほど大きさに差があるのは船ならでは。タンカーは陸揚げされており、チンコケースみたいなバルバス・バウが男らしい。

うたた寝していたらすぐ小島到着。まずは島の南西端にある探照灯跡へと向かうため、海際の道を歩く。
一見静かな海に見えるが、少し沖の方は素人目に見ても流れが早そう。

四国と本州を結ぶ、しまなみ街道の一つ、「来島海峡大橋」。
橋脚は馬島に建てられているが、建設反対を訴えた島民への懐柔策として、しまなみ街道には島民専用のインターがある(一般者は使用できない)。また原付や自転車でも島へ降りられるよう、橋へ登り降りできるエレベーターもついている。

島には廃墟が多く、廃旅館や建物の基礎をあちこちで見かけた。

「探照灯跡」説明板。
石の階段と赤レンガで築かれたこの探照灯跡は北部灯台跡の探照灯とともに芸予要塞の一翼として重要な役割をはたしたと思われる。探照灯は夜間この海峡を進入してくる船を発見するため海上を照らしていた現在でいえば「サーチライト」であります。今は台座の施設しか残っておらず探照灯がいつの時代にどのような方法で撤去されたか資料がなくさだかではない。この付近は「ビワ首」と言われ、琵琶の形をした小島の一番先の部分で地形も比較的平地で、現在はキャンプ場として多くの人に利用されている。先端の灯台(黒灯台)付近は浅瀬で干満時にはゴウゴウと流れる潮流は目を見はるものがあり、対岸の糸山、来島、波止浜湾を一応でき、島の緑と潮流があいまって充分スリルを味わうことができます。


ですます調とである調がまじった素人チックな説明板だった。

説明板にある台座施設。1階には掩蔽部、その横に階段があり上層へ登れるようになっている。

掩蔽部内部から外側を撮影。もちろん残留物などは残っていないが、幸いこれといった落書もなく、良好な状態で保存されている。

掩蔽部の奥は、探照灯が置かれていた上層部へとつながる電灯井となっている。探照灯は必要に応じて上げ下げされていた。

上層部から掩蔽部入口付近を見下ろして撮影。左手は登ってきた階段。

探照灯の設置跡。危険防止の為、電灯井には柵が設けられていた。

上の写真奥の塁へ登るためのハシゴ跡。金具の穴に棒を通して足場としていたようだ。

上層部は高台の広場になっており、この下を海岸道が通っている。探照灯が置かれるだけあって、見晴らしのいい場所だった。

探照灯を後にして発電所跡へ向かう。途中には往時の水路も残されていた。
説明板にも紹介されている通り、探照灯付近はキャンプ場になっているが、あまり使用された形跡はなく、ほぼ廃キャンプ場状態となっていた。

渡船所にも近く、「観光資源としての戦争遺跡」のメインスポットとなる発電所跡。他の施設がその施設だけの説明板だけなのに対し、ここは小島の要塞自体の説明版が置かれている。

発電所内部。
発電所跡ということで、それらしい形跡がかすかに残っている。
落書がほとんど見られないのは良いことだ。

発電機が載っていたと思われる。コンクリート台。他の発電所跡でもよく見かける。

鉄格子入りの窓、奥に小さな煙突らしき物体が見えるが、何かは不明。

台所跡。
水廻りと竃が残っているが、若干損壊している。

蛇口。明治期に建造された建造物だが、蛇口は妙に今っぽい。わざわざ付け替えたとも思えないのだが。

戦争遺跡トップ次頁
////
観光トップ