天守(天主)
城の最も城らしい建造物であり、最も重要な建造物でもある天守(天主)、その起源は「殿守」、「天主」、「殿主」等と呼ばれた城主の居館である。
古くから、攻めてくる敵を察知したり、攻められた際の防御の為に、見張台にあたるものを建設するのは至極当然の動きであった。


具体的には、城の中に建てた火の見櫓のような井楼櫓や、居館の屋根上に乗せた物見櫓のような望楼がそれにあたり、これらが直接的、または交わりあって進歩したものが天守である。厳密にどこから天守とするかは定かでないが、現在言われている「天主閣」というものが築かれたのは松永久秀による多聞城が最初とされている。
その後、織田信長によって安土城天守が築かれると、各地で天守の建設は一気に広まりを見せた。


やがて徳川氏が天下を掌握すると天守の防御上の必要性は希薄となり、城のシンボル的な役割が主となっていった。さらに豊臣家の滅亡後、幕府は「一国一城の制」による城建造の制限、既存城郭の破却を行わせると共に、三層以上の天守の建造を禁止した。
天守閣と呼ばれるようになったのは明治に入ってからの事である。


経済的問題もあって、火災による焼失後は再建されない天守も多かった上、明治初期の破却、太平洋戦争による戦災で現存する天守はどんどん減っていき、現在は以下の十二城を数えるのみである。


国宝(4城)
姫路・松本・彦根・犬山
重文(8城)
弘前・丸岡・備中松山(高梁)・松江・宇和島・松山・高知・丸亀
天守の構造
天守の構造としては大きく、「望楼型」と「層塔型」に分けることができる。望楼型は初期の天守に多く見られる構造で、入母屋屋根を持つ居館に望楼部を載せた形のものであり、層塔型は下層から上層まで一連の構造で設計してあるものである。
望楼型の見かけ上の特徴としては主に、「大きな入母屋屋根を持つ」・「望楼部に廻り縁を持つ」・「望楼部の柱や長押が見える」等がある。
層塔型の見かけ上の特徴としては望楼型の反対で、「こぶりな破風と寄棟屋根を持つ」・「望楼部は内部望楼型となり、廻り縁を持たない」・「望楼部の柱や長押が見えない」等の他、「下層から上層に向けて規則正しく逓減(小さくなっていく)しており、かつその比率は小さい」等がある。


望楼型
一言で言うと上下層が一体型ではない構造。
主に居館部分となる下層部の入母屋屋根の上に、物見櫓が載せられたものが望楼型天守の始まりとなる。初期は文字通り「とってつけたような」ものであったが、次第に「天守」を意識して設計が行われるようになっていった。


望楼部は基本的に、下層部の梁の上に載る形で築かれている。
望楼部は物見櫓としての役割から回り縁を持っていることが多い。また接合部分は千鳥破風唐破風を築き、防御性/装飾性を高めている。


また大きな入母屋部分は屋根裏部屋となっており、外観の層と内部の階数が一致しないことが多い。




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犬山城(現存)−前期望楼型
(三層四階)


下層部と望楼部の建築年代の差が明らかとなっている正真正銘の望楼型。天守の建造年は未だはっきりと分かっていないが、望楼部が載せられるまでは小さな物見櫓のが載せられていたとされる。望楼部には柱、長押、回り縁等が見られ、望楼型天守の特徴を色濃く持っている。

松江城(現存)−後期望楼型
(四層五階)


1611年、築城の名人と言われた堀尾吉晴が築いた城。二層の下層に二重櫓を載せている。下層部と望楼部の切妻が同一方向という後期型の特徴が見られる。

姫路城(現存)−後期望楼型
(五層六階)


二層目の入母屋から望楼型と定義されているが、最下階から最上階まで通し柱が通っている。望楼部と下層部の見かけ上のバランスをとるために接合部に屋根がまわしてある等、望楼型から層塔型への移行していく過程が見られる。

高知城天守(現存)−前期望楼型
(四層六階)


江戸中期、享保の大火(1727)で天守が消失、その後1747年に再建された。当然望楼型天守を建てる時代背景ではないのだが、、藩祖一豊の築いた天守を偲び、当時の様式で再建された。
層塔型
上下層が一体となっている構造。
従来の望楼型では天守の高層化に適応していない為、次第に上下層に通し柱を通した層塔型が多く建てられるようになった。関ケ原後に建てられた姫路城も外観は望楼型であるが、実際には太い大黒柱が通っており、構造上はこの層塔型に区分できるともいえる。


望楼型で多く見られた回り縁を用いた外部望楼は、この層塔型では見られず、そのほとんどは回り縁を持たない内部望楼型となっている。
また、最初から上下一体で設計されている為、外観の層と内部の階数は一致している。その他、上層に行くに従って規則的に層面積が小さくなっていく(逓減)のも特徴である。
望楼型では必要不可欠な大きな破風や入母屋は構造上必要がなくなり、多くは寄棟屋根で、意匠上、小さな千鳥破風唐破風がつけられている。
寄棟屋根
棟と四方に屋根面を持つ形式の屋根であり、寄棟屋根の建物を寄棟造りという。
寄棟屋根で降り棟が1点に集中するものを方形という。
以上「寄棟」についての記載と図版は
「財団法人資産評価システム研究センター」様のHPより許可をいただいて転載させていただきました。
http://www.recpas.or.jp

名古屋城天守(焼失前)−層塔型
(五層五階)


1614年、豊臣家や西国大名に対する要の城として天下普請で建造された城。破風が多く見られるが意匠の為のものであり、基本的には寄棟屋根となっている。
廻り縁は見られず、内部望楼式となっているのが分かる。

江戸城天守(江戸図屏風抜粋)−層塔型
(五層五階)


将軍家の居城として築かれた五層五階地下一階の日本最大の天守。火災焼失後、再建されることもなく、現在は天守台のみを残し、その巨大な建造物は屏風絵でみることしかできない。
天守の形式
初期には天守は独立して築かれることが多かったが、後に天守の防御力を上げる為、小天守や櫓を天守に絡ませて築かれることが多くなった。その配置によって大きく四種類に分けられる。
豊臣家が滅び、徳川家の覇権が決定すると、天守は次第にその当初の目的を失い、再び独立して築かれるようになっていく。
独立式天守


丸亀城天守(現存)


関ケ原を挟み、五年を費やして築かれた城。独立した層塔型独立天守であるが、麓から本丸までの石垣は高く、縄張も絶妙に築かれているので天守自体は至ってシンプルなものとなっている。
複合式天守


犬山城天守(現存)


櫓が天守に付随する形で築かれた城。写真の犬山城には右手前(南東)部分に出張倉庫が見られる。
この犬山城の他、彦根城、大垣、松江城等がこの形となっている。
連結式天守


名古屋城天守(復元)


天守と小天守/櫓が渡櫓等で繋がって築かれた城。写真の名古屋城は復元されたものだが、焼失前の現存時も大天守に入るには小天守から入るしかなかった。渡通路の外側には「忍び返し」が付けられている。
連立式天守


和歌山城天守(復元)



大天守と複数(三棟)の小天守/櫓が渡櫓で繋がれた城。姫路城・和歌山城・松山城等に見られる。防御性としては最も高い配置となっている。


姫路城天守(現存)
複合連結式天守


松本城天守(現存)


その名の通り「複合」と「連結」を兼ね備えた城。写真の松本城は渡櫓で連結した乾小天守と、天守に付随する形で築かれた巽附櫓と月見櫓が築かれている。
小天守・巽附櫓は天守の死角を減らす為の防御的役割から築かれたものであるが、月見櫓は天守築造から約50年後に築かれた。その構造は極めて防御に適しておらず、その役割の違いが他の三棟とは対照的である。


松本城天守渡櫓部分。