曲輪
曲輪
本丸・ニノ丸等の城内の小区画の事。用途や目的によっていくつかに分類する事ができる。


⇒関連:縄張

本丸
城の中心となる曲輪で指令部となるところ。「本丸」と呼ばれるようになったのは安土桃山時代の後期になってからの事で、それまでは「詰城」・「根城」・「本城」と呼ばれ、住居空間としての役割を持たない事が多く、それほど広い面積を持たなかった。近世に入ると天守閣や御殿が建てられ、城の象徴的な役割も持つようになる(そうでないの事もままあるが)。そのころになると、住居空間となった本丸からさらに天守閣の建てられた区画を、「天守曲輪」と呼ばれる小曲輪として独立させる事もあった。



ニノ丸
本丸を守護する為の曲輪。基本的にニノ丸を経て本丸へ入る事になる。城主の居館が築かれるも多い。また兵糧庫や弾薬庫等、戦闘に直接関わる物資の保管も行われた。



三ノ丸
ニノ丸・本丸を守護する為の曲輪。施政機関や重臣の邸宅、馬屋等が築かれる事が多い。この三ノ丸までが城の戦闘用区画として中心となる所で防御にも力を注がれている。



西の丸
通常、隠居した城主の隠居所であったり、妻や世子が住んでいた場所をさし、城主家族の私的区画をさすことが多い。
秀吉の側室として名高い淀殿は西の丸に住んでいたため「西の丸殿」ともよばれていたし、大阪の陣後、本多忠刻に再嫁した徳川秀忠の娘千姫が輿入れの際にその化粧料で築かれ入ったのも西の丸である。
また、徳川2代将軍秀忠、8代吉宗、11代家斉などは、隠居後には江戸城西の丸に移ったが、その後も実権を持ち続けている。更に6代将軍家宣は5代将軍の養子となった際に西の丸に入っている。



井戸曲輪・水手曲輪
その名の通り、井戸や溜池等がある曲輪。籠城時には当然生命線となるので堅固なつくりとなっている。
自分が訪れた城としては、名護屋城がすぐ思い当たるのだが、この城の水手曲輪は出入口が一箇所しか確認されていない。これも防御性を高める為。


高天神城井戸曲輪。

帯曲輪・腰曲輪
帯曲輪は細長く帯状に城を囲む曲輪。腰曲輪は帯曲輪よりも短い曲輪。山城等の山腹部に見られる事が多い。幅が狭いため、攻城側も一度に多くの兵を移動させる事が難しく、また兵も滞りやすくなるので、城兵側からすると攻撃を行いやすくなる。


新府城帯曲輪・腰曲輪。
(新府城・新府城縄張図/新府城想定復元図より)

稲荷曲輪・八幡曲輪
信仰上の目的で設けられた曲輪。
上の推定復元図にも見られる、新府城の稲荷曲輪。

人質曲輪
人質を隔離しておくための曲輪。近世城郭ではあまり見ることはできない。



山里曲輪
戦闘を全く考慮せずに茶室や風光明媚な庭園等の設けた曲輪。金沢城の兼六園、岡山城の後楽園等も同類。
名護屋城の山里丸。現在も調査が続けられており、茶室跡や排水溝等の遺構が発見されている。
横矢掛り
防御を高める屈曲した塁のこと。敵兵に対して正面からだけでなく、横からも攻撃を与える事ができるので、攻撃的な死角が少ない。また屈曲させることにより、塁の安定性を高める効果もある。
  

(一枚の平面な板よりも、曲折した板の方が倒れにくく、上からの圧力にも耐えることができる。)
新府城の横手掛り。
右手土塁が三日月状に湾曲している。
横矢掛りの種類
出角
塁の角に枡形に塁を屈曲させる。角に設ける事によって二面を防御することができ、見通しもよくなる。隅櫓が築かれる事が多い。
丸亀城本丸出隅(櫓台)

屏風折
塁の面を屏風のようにぎざぎざに屈曲させる。

入角
塁の角を城内側に凹ますように屈曲させる。
角落しともいう。

角缺
塁を二段以上凹ますように屈曲させる。

合横矢
塁を城内側に凹ますように屈曲させたもの。凹部分に馬出を築くと真の馬出(両袖馬出)となる。


⇒関連:馬出
伊賀上野城の合横矢。堀の対岸から斜め方向に向かって撮影。
伊賀上野城、上記写真の突出部から中央部に向かって撮影。

左袖
虎口に対し、城内側から見て左側のみに合横矢を設けたもの。
城内を向く敵からすると、自分の右側に対して弓矢や鉄砲での攻撃がしにくいため、城側の兵からすると有利になる。
(右利きの人は自分の右側に対して弓矢を射する場合、城内側に背中を向けないといけない)
名古屋城表二の門手前の土橋から見た東南櫓。この東南櫓が左袖となり、土橋を渡る敵に対して効果的な攻撃を与えることができる。