依佐美送信所跡 その5

対欧無線通信発祥地の碑。

記念鉄塔が建てられている2号以外の鉄塔跡は特に再利用の予定もなく、とりあえず当時敷地内に植えられていた楠が移植してあるとのこと。
南側の偶数号鉄塔が並ぶ田んぼ道を東へ。

最初は4号鉄塔跡。
何もない100坪くらいの空き地があり、二本楠が植えられている。奥に見える道路は国道419号線。

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国道419号を横断して6号鉄塔跡。
4号鉄塔跡と同じく何もないが、30歳くらいのおっさんがラジコンやっていた。39歳の自分が30歳くらいを「おっさん」呼ばわりするのもおこがましいが雰囲気がおっさんだったので。

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東の端、8号鉄塔跡へ。
ここから左に曲がると7号鉄塔の方へ行く。

基礎部分が残る8号鉄塔跡。
なぜか中央にはゴミが放置されていた。わざわざこの中心にゴミを置く理由は不明。

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基礎部分。
特に展示目的ではないようだ。

市のこの鉄塔跡に対してどう活用していくつもりなのかが全く分からない。公園にするでもなく、売るでもなく、施設を建てるでもない。

とりあえず楠を植えるくらいの気概があるなら説明板くらい建てればいいのだが。

再び記念鉄塔の基礎部分。
これと比較すれば何となく分かるだろうか。

平成8年に鉄塔の解体がはじまり、この8号鉄塔はジャッキを用いて下から8mづつ解体するジャッキダウン工法がとられた。8月29日ロープの切断により8号鉄塔は205m部分で倒壊、死者1名、重軽傷4名をを出す事故が起きている。

8号鉄塔跡から北西(6→4→2号鉄塔跡)方面を臨む。
とりあえず6号と4号跡の楠は見える。

8号から北東にスイッチして奇数号塔の列へ。
この7号とさっきの8号の間にはコイルハウスがあったはずなのだが痕跡見つからず。

昭和46年に21歳の溶接工が感電事故に遭っている。

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5号鉄塔跡。
昭和47年に18歳の従業員が感電死している。

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開校前には座り込みなどで逮捕者が出るほど揉めに揉めた双葉小学校。

しかし開校後は毎年春に社宅広場で写生大会が開かれていた。さらに鉄塔解体時には学校行事で親子の送信所見学会が開かれ、全学年で無線塔の作品制作を行っている。

係員のおじさん曰く、「扇動家にあおられて一時的に感情が高ぶった騒ぎではないか」とのこと。

ちなみに昭和40年には本館より更に鉄塔に近い位置に新校舎が建てられたのだが、この時は反対運動が起きていない

3号鉄塔跡。
昭和40年に小学1年生の児童が感電事故に遭い、昭和50年には有刺鉄線のフェンス内に立ち入った小学2年生の児童が感電死している。翌年死亡した児童の祖父によって近くの願行寺に「受難の像」が建立された。

児童の保護者は国の管理手落ちに対して損害賠償を求め、一審では国の手落ちが認められたが、国が控訴した二審では無罪となっている。

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3号鉄塔跡の空き地。
8号鉄塔跡で見たあのぶ厚い基礎を壊したとも思えないので恐らく埋められているだけだろう。

通学路の安全を見守るカカシ。
小さい頃はよくカカシに追いかけられる夢を見たものだ。意外と「へのへの」顔で追いかけられると怖いものだよ。

1号鉄塔跡。
やはり特に何もなし。他の鉄塔跡が田んぼの中にポツンとあるのに対し、1号は前述の双葉小学校の他、民家にも近い場所となっている。

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1号鉄塔付近から撮影した2号鉄塔(現在と追記した部分)。
隣にとりあえず10倍の大きさで鉄塔の絵を描いてみた。往時はこんな感じ(幅は別ね、あくまで高さね)に見えたはずということで。

往時の建造物を見ないまま、係員のおじさんに話を聞いたり、資料を調べたせいもあるのだが、戦争遺跡というよりマイナーヒストリーを調べている気分だった。まぁもちろんそちらも嫌いではないし、色々波乱万丈な話も多くて興味深かった。
あと、調べたり、話を聞いている中でやたらと左な人達の活動が活発だったという印象を持った。今でも共産党系HPの活動リポートでここはよく出てくるみたいだし。

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