依佐美送信所跡 その2

しつこく記念鉄塔。
1/10の高さになってしまったとは言え、真下から見ればそれなりの迫力はある。

記念鉄塔基礎部分。
ご覧の通り、根元部分は結構細い。

館内に展示されている鉄塔の根元部分。
ご覧のようにボールペンの先っちょみたいに丸くなっており、塔自体がある程度自由に動くようになっている。

…とは言え、重さ285tを支えている(ワイヤーでもいくらか支えているとは思うが)のがこれだけと言われてもピンと来ない。

送信所を模して建てられた「依佐美送信所記念館」。サイズ的には送信所の2/3くらいのサイズとのこと。

記念館の説明板。
長波用送信装置の価値は認めないでもないが、やはり「箱」がないとそれらしさは薄れる。

館内の様子。
現在は1列だけ発電機などが並んでいるだけだが、往時は2列並んでいた。

こうした資料館で最初に見るのはジオラマ。これを先に見ておくと当時のイメージが掴みやすい。


現在の航空写真に往時の建造物や鉄塔模型を乗せたもの。チープと言えばチープだが鉄塔の巨大さなどは分かりやすい。

左奥が1号鉄塔、その手前が2号鉄塔、1号鉄塔の右が3号鉄塔、その手前が4号鉄塔…。

現在電気興業の敷地となっている空き地部分にあった本館や送信所。現在残っている小屋っぽい建物もこの中の一つなのだろうか。

1号鉄塔。
「双葉幼稚園」のキャプション左側にあるのが「双葉小学校」。
昭和31年に付近の二つの小学校合併の話が持ち上がり、候補地として敷地の一部が1号鉄塔250m圏内にかかる場所が選定されている。
万一の倒壊時に危険だということで保護者の一部が中心となって座り込みを行った。対応の悪さなどもあってか運動はさらにエスカレート、市議会への市長入場措置や徹夜の座り込みで検挙者も出ている。

トヨタ自動車社長の仲介などにより和解、昭和34年8月に新校舎が完成している。

本館、送信所部分はジオラマの隅っこの方に拡大展示されている。ただし妙にペーパークラフトチックではあるが。

ジオラマを離れて各種展示へ。

まずは米海軍に接収されていた時代の告知板。文章の中にある通り、米海軍管轄であるが、接収4年後の昭和31年より米兵は撤退しており、日本人の手によって運用と保守が行われていた。

英語の横に日本語が書いてあるが、全く文章がリンクしていない。

英語の看板。
係員のおじさんに聞いたのだが、米軍基地時代は日曜日になるとちょくちょく基地撤退デモがやってきたらしい。

米軍基地とは言え、最初の数年以外は米国人は常駐しておらず、地元の人々に対しては国から補償金も出ている。
正直、地元の人は基地に対してほとんど嫌悪感というものは持っていなかったと思われるのだが、煽動家の皆さんはわざわざ遠くからやってくるのである。
おじさんもよくシュプレヒコールが聞こえたもんだよと笑っていた。

こうした日常的なデモの他に規模の大きなものとして、昭和59年には朝日新聞の記事によって集まった1万人を越える人々によって作られた「人間の鎖」によって基地全体が包囲されている。
さらに平成4年には県が依佐美送信所を「都市景観百景」の一つとして選んだことにより、労働組合や市民団体が再び5000人規模の人間の鎖(この時は送信所及び鉄塔4基)を作っている。

色んな所でこうした話をよく聞くのだが、大抵は地元民がそれほど気にしていないのにわざわざ外地からやってきた人達が地元を煽って去っていくので困るという。

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