名古屋海軍航空隊跡 その1 (豊田市 2008/4) |
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【少年院東側の竹薮の中に残る地下戦闘指揮所壕跡】 出入口上方の丸や四角の窓は何の意味があるのだろうか |
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2年ぶりくらいに、「瀬戸地下軍需工場跡を保存する会」主催の「豊田の戦争遺跡」見学会に参加。今回は碑などが多く、直接の遺構があまり見られなかったので少々残念であった。ただ、数年前に見学に来たものの発見できずに哀しい思いをした地下戦闘指揮所壕跡が見られたということでは満足している。 戦争遺跡でレポートした「永徳スリップ」も、この名古屋海軍航空隊が使用していたもの。 以下名古屋海軍航空隊概要 【「豊田市の戦争遺跡」・「愛知県史」より引用】 昭和14年(1939)3月、愛知航空機株式会社の飛行性能試験飛行場として造成された。当初は長さ約1kmの滑走路1本。 昭和15年(1940)海軍により買収。 昭和16年(1941)10月、霞ヶ浦航空隊の分遣隊が移住。 昭和17年(1942)4月1日、分遣隊は名古屋海軍航空隊として独立、練習航空隊として陸蒸気の操縦訓練を担当。 戦争拡大にともなって付近の小学生を含む人々の勤労奉仕などで順次整備され、3本の滑走路ができた。 昭和19年(1944)9月からは、従来の陸上機操縦教育のほかに九九式艦上爆撃機の操縦訓練開始。 昭和20年(1945)2月、練習航空隊の指定を解かれ、特別攻撃訓練員の養成が命令される。 4月5日、神風特別攻撃隊「草薙隊」として鹿児島県国分基地を経て沖縄戦に出撃。 以後6月3日まで計3回出撃、合計63名が散華した。 戦後は一時期アメリカ軍の接収時期を経て、法務省管轄となり、滑走路などは開拓され田畑となった。現在この地には豊田市の浄水場や愛知少年院などがあるが、愛知少年院には、第2士官舎、烹炊所、兵舎の一部、赤ランプのついた煙突、プール、車庫前の大松などがあった。 |
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滑走路は、「2,000m×200m」・「1,800m×100m」・「1,500m×150m」の3本。 昭和23年(1948年)の航空写真に当時のおおまかな施設位置を貼り付けたもので、若干ずれているかと思われるが、戦後三年を経てもはっきりと滑走路の跡が刻まれている。 名古屋・豊田市のベッドタウンとして開発が進んでおり、現在の航空写真ではその痕跡を確認することはできなかった。 |
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「草薙隊之碑」前で名古屋海軍航空隊について説明を受ける。 以前、筆皇らと地下戦闘指揮所壕見学に来たことがあるのだが、発見できなかった。今回やっと見ることができる。 |
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隅にひっそりと建つ「特別攻撃隊員 機付整備員 追記碑」。 | ||
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「草薙隊之碑」。 後ろのフェンスは愛知少年院のもの。 |
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此ノ地ハ昭和十七年四月一日開隊昭和二十年九月二日解散セル名古屋海軍航空隊ノ址ナリ昭和二十年春当地ニ於テ神風特別攻撃隊草薙隊編成サレ四月五日十二日の両日各二十機ノ九九式艦上爆撃機ハ鹿児島県国分基地ニ進出菊水一号二号四号作戦ニ参加 同月六日十二日の三次ニワタリ沖縄本島西方泊地ノ米艦船ニ突入ス 未帰還二十八機戦死五十六名彼ラガ眠ル沖縄ノ地ガ祖国復帰ノ日ヲ迎ウルニアタリ有志ノ協力ヲ得テ豊田市在住ノ元海軍軍人本碑ヲ建立シ草薙隊ノ忠烈ヲ永ク後世ニ伝ヘントスルモノ也 昭和四十七年四月吉日 豊田海友会 |
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昭和初期に考案された海軍兵学校の教えである「五省」を示した碑。 一、至誠に悖るなかりしか 一、言行に恥ずるなかりしか 一、気力に缺くるなかりしか 一、努力に憾みなかりしか 一、不精に亘るなかりしか |
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特攻花 大金鶏菊をウィキペディアで調べてみると、北アメリカ原産で、特定外来生物に指定されている。つまり、日本固有の生態系に影響を与えるものとして、「栽培・譲渡・販売・輸出入などが原則禁止」とのこと。 何か複雑なものを感じないでもないのだが…。 |
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日清戦争で活躍した「松島」「橋立」「厳島」、いわゆる三景艦の主砲砲弾。 野間大坊にも同様のものが置かれている。 写真は撮っていないが、横に「為万世」と書かれた別の砲弾も置かれている。 下の説明板写真にも書かれているが、「為万世」、「開太平」は終戦の詔勅の中に出てくる「萬世の為に太平を開かん」より。 |
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置かれている三景艦主砲砲弾についての説明板。 三景艦は清の大型戦艦「定遠」、「鎮遠」に対抗するために建造された巡洋艦。船体相応の兵器搭載を勧めるフランス人技師の意見を拒否して搭載されたという巨大主砲は残念ながら実戦では役に立たなかったが、機動性と連射の効く速射砲にて活躍した。良い意味でも悪い意味でも日本人らしいアイデアだなと思う。また、個人的に作戦についての良し悪しが良く分からないのだが、本や資料を読むと、太平洋戦争時と比較して、当時の政治家や士官は展望の効く人物が多かったと良く書かれている。 |
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説明を聞いていても、前に立つおじさんの背中で蠢く尺取虫がすごく気になって言葉が頭に入ってこない。 | ||
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記念樹。 以下説明板。 「此の月桂樹は東郷平八郎元帥が英国訪問の際に寄贈を受け自邸の庭に植えて居られた木から分植したものです。 寄贈者は元帥の姻戚に当られる当市井上町の故井上五郎氏です。」 |
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愛知少年院。 かつて航空隊基地の中心があった所。 戦後しばらくは中学校として、その後少年院となったが、本部建物やプールなどが残されていたらしい。 |
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地下戦闘指揮所壕跡の航空写真。 前回の探索時はここより北側の深い林の中を散策して発見できなかった。 今回、連れられて行って見ると、意外に簡単な場所にあったので結構ショックだった。 |
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少年院東側の竹薮の中に残る地下戦闘指揮所壕跡。階段を下った通路を挟んで左右に2棟建てられている。 昭和20年、突貫工事で築かれたが、使用されないまま終戦を迎えた。 藪に埋もれていたものを、昭和49年自衛隊が掘り返したもの。 |
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位置を変えて撮影。 階段が結構急な上、落葉が滑るので結構危険。 |
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階段を下りて西側の建造物外壁を撮影。こういった窓の作り方は自分が行った戦争遺跡ではあまり例がないパターン。 | ||
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出入口の上側、アーチ状に丸い穴が並ぶ。その上にはそれより大きな穴が並ぶが、こちらは貫通していない。 何やら通信関係の穴ではあるようなのだが、これほど必要なのか疑問。 案内してくれる人もいるので聞けばいいのだが、それはそこ、気の弱さというもので尻込み。 |
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