福沢桃介記念館・山の歴史館 その2

留置所。
人が手薄な時は手前の扉も閉めていたらしいが、通常はこの扉のみ閂がかけられていたとのこと。

留置所内部。
同じ部屋が二部屋ある。窓の外には鉄格子も見える。

調所は説明板が置かれてあった。
江戸時代はヒノキ・サワラなど6種類の停止木以外の伐採は許可され、大半は明山と呼ばれる、地元民の入ることができる山であった。しかし明治期に入り、この付近が御料局直轄となると、今まで入ることができた明山への立入も禁止され、この地方の人々の生活を圧迫していった。
こうした制度に意義を唱え、運動を行ったのが、作家島崎藤村の兄である島崎広助であった。広助は粘り強い運動を続けたが、残念ながら根本的解決には至らなかった。しかし年1万円(後増額)の御下賜金交付は何とか勝ち取った。
というような説明がされている。

山の歴史館から桃介記念館へは渡り廊下で結ばれている。桃介記念館直前から、山の歴史館方面を撮影。
この渡り廊下、一見クラシックな造りであるが、実は平成に入って建てられたもの。

同じく渡り廊下から山の歴史館を撮影。

桃介記念館基礎部分。
この付近には池なども作られていたそうだが、昭和28年の伊勢小屋沢蛇ぬけ災害と呼ばれる土石流災害で、無くなってしまったらしい。辺りには今でも大きな岩がゴロゴロしており、土石流のすさまじさを感じさせる。

両館の間の空地に置かれたディーゼル機関車。木材の輸送に用いられた森林鉄道。

風呂と廊下の間にある小便器跡。床のタイルは当時のものであるが、小便器は復元されていない。
いかにも「復元しました」風の風呂と比較して、妙なリアルさがある。

昭和35年の火災で焼失を逃れた1階部分であるが、この風呂部分は完全に復元されたもの。風呂桶には水抜きの穴がない。

別荘の玄関。
展示されている桃介の写真で、この玄関をバックにしているものもある。桃介気分を味わいたい人はトライ。

福沢桃介の説明板。
埼玉県出身で、慶応義塾在学中の体育祭で、福沢諭吉の妻の目に止まり、次女房の婿養子となった。留学後に王子製紙などで勤務したが、周りのやっかみもあったようで退職。その後、結核療養中に株で大儲けし、実業家へ。
木曽川に読書発電所など、いくつかの発電所を築き、現在の関西電力を設立した。
その他、東邦ガス・中部電力・名古屋鉄道・東亜合成など、東海地方の主要産業の設立に携わっており、名古屋の発展に大きく寄与した人物である。

桃介が語られる時、必ず名前が出てくる川上貞奴についても展示されている。
明治から昭和にかけての女優であり、「日本の女優第一号」とも言われる人物。伊藤博文の愛妾でもあった。
後に「オッペケペー」の川上音二郎と結婚したが、一座は金銭的に苦しみ、一か八かで海外公演を行ったところ、大好評となり、「マダム貞奴」とも呼ばれた。
音二郎の死後、福沢桃介と再会し、以後パートナーとして生涯を共にした。この地方の発電所建築時も、多忙な桃介に代わり、バイクにまたがって現場を指揮することがしばしばあったらしい。

窓際に置かれた籐の家具セット。
籐の椅子って、一見豪華だけど固くて長時間座れないだ。

川原の石を利用した暖炉跡。石に焦げた跡が残っている。

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