薩摩義士(宝暦治水跡) その2

大牧工事役館跡
治水工事の本部となった大牧工事館跡。この地区の大庄屋であった鬼頭兵内の邸宅があてがわれた。現在は往時の1/3の面積になっているということだが、一部整備されてなお、大きな邸宅が建てられていた。

館跡に立つ平田靱負像。総奉行である平田靱負は一切の工事が終了した後、この館で割腹した。

像の足元にある平田靱負辞世の句。
「住みなれし 里も今更名残りにて 立ちぞわずらふ 美濃の大牧」。

トイレ近くにバスの待合所みたいな場所が用意されており、説明版が掲げられている。

工事役館跡とこの館で死去した27名についての説明版。義士関係の史跡はライオンズクラブによるものが多い。


工事役館跡の説明版。


当時の地形と事蹟の説明版。
尾張側は御三家筆頭の尾張徳川家の領地とあって、領地を接する木曽川に「お囲い堤」と呼ばれる堤防が犬山から河口にわたって築かれていた。尾張側にとって安全なこのお囲い堤であったが、逆に美濃・伊勢側からすれば大水が常に自分達の方へ流れ来る結果となり、迷惑千万なものであった。

館跡に建てられた「」。

館跡駐車場。
若干マイナースポットの割には駐車場はしっかりしている。この駐車場が満車になることはあるのだろうか。

牧田川決壊地
昭和34年8月の大雨、及び9月の伊勢湾台風で牧田川が決壊、周辺地域を50日以上水浸しにした。決壊した場所が○○○の真西ということもあり、地元の人は薩摩義士の祟りだと噂していたらしい。

「決壊口之碑」。
説明版も建てられていたが、ほとんど見る人はいないであろう超マイナースポット。

牧田川の堤防。奥に停まっているジムニー右手で決壊したらしい。

宝暦治水碑
薩摩義士が工事を行なった○○○○跡。現在は千本松原と呼ばれ、道の両側を川が挟んだ風光明媚な道となっている。
ここに植えられた松も幕府からの指示で地元から持ってきた「日向松」。
幕府の徹底的な嫌がらせぶりが目に浮かぶ。

日没も近くなってきた揖斐川。

治水神社から南へ1kmほど南にある宝暦治水碑。駐車スペースには数台の車が停まっていたが、ほとんど昼寝の途中であった。

木曽三川治水の先駆者石板。
平田靱負と明治時代に三川分離を完成させたオランダ人技師ヨハネス・イ・デレーケの銅版が置かれている。

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