薩摩義士(宝暦治水跡) その1
(岐阜県養老郡養老町他 2007/6)

岐阜県南濃地方や三重県の桑名くらいまででは結構な知名度があるのだが、なぜか愛知県民には知名度が低い「薩摩義士」。江戸時代、遠く日本の端である薩摩から木曽三川の治水工事にやってきた薩摩藩士達。80名以上の犠牲者を出しながら、これでは彼らも浮かばれない。なぜ木曽三川地域の住民でありながら、愛知県民にだけ知名度が低いのだろうか?そして薩摩「義士」とは?本籍が0m地帯である津島市に本籍がありながら、20歳を越えるまで自分も知らなかったそのマイナーぶりをリポート。


薩摩義士とは?
江戸時代中期、宝暦三年(1753年)、薩摩藩に幕府より御手伝普請の命が出された。普請とは木曽川・長良川・揖斐川、いわゆる木曽三川の堤防普請であり、その内容はこの工事に対する費用の全額出資と一切発言権のない労働力としての藩士派遣というものであった。幕府からは工事責任者・老中堀田正亮、工事総指揮・勘定奉行一色周防守政伉、さらに目付が内定していた。
これはあきらかに薩摩藩の弱体を狙ったものであり、当然藩内でも反対論が多数出たが、総奉行に任命された家老平田靱負は幕府の挑発には乗らず、これら強行的な藩士を慰撫して普請の命を受けることとした。


当時木曽三川は網の目のように大小の本支流が入り乱れ、毎年のように大水で大きな被害を受けていた。川の高さが異なるため、一度大雨が降ると低い川に向かって濁流が流れ込み、あっというまに付近の村を水底に沈めていったのだ。一方尾張藩は木曽川に面していたが、御三家筆頭ということもあり、御囲い堤とよばれる堤防が江戸初期に築かれていた。尾張方面への飽和をさえぎられた川の水は南濃、伊勢側に流れ込むという悪循環であった。
この時から愛知県民vs岐阜・三重県民の反目ははじまっていたのかもしれない。愛知県民100人に聞いた「三重県民の許せないところ」ベスト1は、「愛知県の隣でありながら妙に関西チックなイントネーションで話すこと」らしい。


翌宝暦四年(1754年)、平田靱負は総勢947名の藩士を引きつれ薩摩を出発、自らは金策の為、途中大坂に残った。当時薩摩藩は70万両ともいわれる多額の借金をかかえており、当初14,5万両といわれた工事の予算捻出はただならぬものであった。一方工事にかかるため現地に到着した藩士達は一ヶ所にまとまることを禁じられ、農家などに分宿させられていた。これら農家などには幕府から事前に、薩摩藩士への食事は一菜一汁、酒・魚は禁止、食事代・草鞋代・宿泊代など全て実費での受取等が言い渡されていた。材料や人件費、その他必要な物品は全て幕府指定のものしか許可されず、費用も通常からするとかなり高いものであったという。


2月に工事がはじまると、幕府役人の薩摩藩士への嫌がらせはすぐに始まった。藩士への罵倒に始まり、ある役人がこうしろというので、その通りに工事をすると、数日後には別の役人がやってきて、「これでは駄目だからああしろ」と完了した工事を一からやりなおさせるというありさまであった。
さらに夜分、工事施工箇所が何者かに破壊されるという事件があり、張り込みをして下手人を捕獲すると、幕府役人による指示であったということもあった。この時は二名の薩摩藩士が割腹による抗議を行った。しかし平田は幕府への批判ととられるのを恐れ、さらには勝手なる切腹は御家取り潰しという藩の掟から家族が路頭に迷うのを防ぐため、「腰のもの」による事故死として報告した。以後屈辱に耐え切れず腹を切る藩士は50名を越えたが、全て事故死扱いとなった。
また栄養がいきわたっていない状態でのはやり病もあり、30名以上の病死者が出た。付近の寺は幕府の目を恐れ、彼らの遺体引き取りを拒否した。桑名の海蔵寺など引き取って供養してくれる寺もあったが、それでも一部を除いて墓石すら建てられず、ひっそりと埋葬されるのみであった。


1755年(宝暦五年)、40万両以上の費用と80名を越える犠牲者を出して御手伝普請は完了した。藩士らは心身ともに疲れきった体をひきずって帰国を果たしたが、総奉行平田平田靱負は多大なる費用と犠牲者を出した責任を負って割腹。薩摩藩内でもこの工事に関することは藩士達が口を閉ざしてしまったため、次第に人々の記憶から薄れてしまった。
しかし木曽三川の輪中などに住む農民らは薩摩藩士の命賭けの工事をしっかりと子孫に言い伝えており、江戸幕府崩壊後、彼らの口からこれらの悲話が世に知られるようになったのである。


堤防工事は完了したが、三川の完全なる分流はまだ行われず、大水の被害は完全におさまることはなかった。その後、明治に入ってからオランダ人技士ヨハネス・イ・デレーケによって三川の分流が完成、そして被害が大きかった昭和34年の伊勢湾台風以後さらに水系工事はすすめられていった。


つまり愛知県側は御囲い堤が早い段階からあったため、薩摩藩士による命賭けの工事も、別にありがたいことでもなんでもなかったのである。当然彼らの働きは文字通り「対岸」の火事であり、記憶に留めることなく、時代は過ぎていった。

治水神社の説明板より。
左が宝暦治水当時の絵図、右が現在(といっても昭和末期と思われるが)の絵図。
宝暦時は木曽川、長良川、揖斐川、そして小さな川が網の目のように入り混じっている状態なのが分かる。
さらに木曽、長良、揖斐の順に川の高さが異なるため、大雨が降ると木曽→長良→揖斐に濁流が流れ込んで被害が増した。

天照寺
岐阜県養老町には工事役館が置かれていたこともあり、薩摩義士関係の史跡が多い。
写真は27名が弔われた天照寺。薩摩義士を弔った数としては一番多く、この次は24名の海蔵寺。
天照寺は病死、海蔵寺は事故死(実際は割腹)した者が埋葬されている。特に割腹死は幕府への批判ととられるため、「腰のものにて怪我」という報告がされていても埋葬を拒否する寺ばかりだった。

天照寺。
寺の墓地には3名の墓石が建てられており、残り24名は200mほど離れた根古地義歿者の墓に瓶に入れられて葬られた。
なぜこの3名(八木七郎右衛門、山口清作、松下新七)だけ墓石があるのか、住職の奥さんに聞いてみたが分からなかった。

この日、関ケ原に行ったのだが、あまりの雷雨に撤退、帰り道中に訪れたのがここ。雲間に見える養老山脈は妙に迫力があった。


読んだ資料だと、豪農の一部には役人につけいって、薩摩藩士に自分らの田畑の仕事もやらせた者もいるらしい。

三名(八木七郎右衛門、山口清作、松下新七)の墓。割腹した者に墓石は建てられないだろうから、本当にこの三名は病死だったのだろう。と、勝手な推測。


この付近の史跡。昭和34年の大雨と同年の伊勢湾台風で決壊したのは①の根古地義歿者の墓から真西の牧田川。付近の人は薩摩義士の祟りかもしれないと言い合っていたらしい。

天照寺内の薩摩義士資料館(無料)。
27名の名が一度に記された位牌、根古地義歿者の墓から発見された瓶(復元)、島津家の家紋(丸に十の字)付の香炉などがメイン展示。個人的には瓶発見時の写真が一番興味深かった。

左が遺体が入れられていた瓶(復元)。上の方に発見時の写真が展示されている。


住職の奥さんに話を聞いていたのだが、聞いた話をノートに書いていると「カパカパ」と音がする。最初は気にしていなかったのだが、視線を下げると必ず「カパカパ」音、意を決して書いてる最中視線を上げると、奥さんが入れ歯を出したり入れたりしていた。どうやら癖らしいが、せせり出た入れ歯の歯茎を見た瞬間、何か見てはいけないものを見たようで、急いで目を伏せた。

ガラス戸が固くて動かなかったため、メイン展示の瓶を横から撮影。
どうでもいいが、「チェスト行け 関ケ原」のてぬぐいが非常に気にかかった。どっかでもらえないものだろうか。

昭和35年の道路整備の際、発掘された瓶。この時発掘されたのは7体分。遺骨は分骨され鹿児島へ戻った。

27名分の名が記された位牌と香炉。位牌はアップで撮ったのだが、手ぶれしてたのでボツ。

根古地義歿者の墓

天照寺から200m余り離れた墓地にある「根古地義歿者の墓」。江戸時代中はあまりおおっぴらに供養するのが憚られたようで、墓碑が建立されたのは大正二年になってから。
この治水工事の為に薩摩から947名の武士がやってきたが、資料によると57名が割腹(資料によりバラバラ)、30数名が病死したらしい。


薩摩義士の哀話として以下の話が有名である。
完了した工事箇所が破壊される事件が発生、永吉惣兵衛・音方貞淵の2名が調べたところ、幕府の役人が日頃薩摩藩士と工事を共にしている地元農民に指示して行っていることが発覚した。永吉・音方は割腹にて抗議を行ったが、翌日家老平田靭負が幕府に提出した報告は「腰のものにて負傷、同日死亡」という「事故死」扱いであった。諫死ということであれば、幕府に対する批判ととられる上、島津家中では勝手な割腹は御家取り潰しという掟があったため、国の家族が路頭に迷うのである。断腸の思いで報告をしたことだろう。
この他、病で気が弱くなったり、役人の度重なる罵倒や不合理な指示などに耐え切れず、割腹する者が後を絶たなかった。また、あまりの執拗な嫌がらせに抗議して、幕府方の役人2名が割腹している。

根古地義歿者の墓。
奥の墓碑は大正2年、左手の堂は昭和46年に建立されたもの。

慰霊堂。
中には遺骨や観世音像、法名などがおさめられている。


慰霊堂の後ろでは地元女子中学生が長話。気の強そうな片割れが大きな声で延々と自慢話。たまにコソコソ話をしている時があったが、その時はきっと自分の悪口を言っていたのだろう…。

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