父島 その3

これは別のキャノン。こちらはちょっと崩れてる。やっぱ潮風が厳しいからなぁ

これは濡れちゃいけないものを置いとく倉庫だったらしい。毛布やら大砲の弾やらをここにしまっておく。

中はこんなん。目に付きやすい発電施設と違って一切の落書がないいい状態。

トロッコの車輪とその後ろにレール。

そういえば居住区のいたるところの壁にこの写真みたいな鉄の棒が刺さっている。この上に板を置いて物を乗っけてたらしい。

これはガイドが見つけたキャノンの中でもバツグンの状態で発見したらしい。シートがかぶせられて全体が木の板で包まれて殆どサビもない状態だったけど今はサビサビ。

こいつはちょっと小さめの大砲。大きさ聞いたけど忘れた。

ここの扉は四重になっている。重要なポジションだったんだろう。

昼食後、山の中を一通り見てから別の発電施設を見学。

その一画には何故か水が貯まっている。ここも見つけた当初はまったく水は入ってなかったらしい。

施設の入口に開いた穴は飛行機の爆撃によるもの。

中から撮るとこんな感じ。ここが空爆されたときは既に中に人がいなくなってたときらしい。

二階の床はこんなんになってるところがちょっと怖い。今にも崩れそう。

場所を移動して陸軍慰霊碑に線香を供える。昔、この慰霊碑は木で出来てたらしいけど、この土地の所有者が邪魔だからって燃やしたらしい。その後その人は一年以内に亡くなったらしい。その後コンクリート製の慰霊碑が置かれた。

にほへの碑。
小笠原諸島の公式な発見は1669年、ミカンを運んでいた遠州の船が難破し、島に漂着したのが最初とされている。その後1675年に江戸幕府によって調査が行われているが、言い伝えによると1593年、小笠原貞頼が発見し、その証拠に発見した三島に「いろは」「にほへ」「とちり」の石碑を残したとされる。
1727年貞頼の子孫と称する浪人小笠原貞任が島の開拓許可を出すが却下された。

小笠原開拓碑。明治十年の物で、文章は大久保利通のもの。藩を国と考えてた江戸時代から十年しかたってないのに既に日本の領土のことまで考え東京から千キロも南の島まで開拓の手を伸ばすとはさすが幕末三英傑の一人。

最後は三日月山展望台へ。戦跡とは関係ないけどいい眺め。

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